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2006-10-12撰時抄 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

撰時抄

【せんじしょう】

「五大部」の一つ。建治元年6月、身延において御述作。

文永の役(文永11年、第1回蒙古襲来)の翌年、当時の不安定な社会状況、時代背景のもと、御述作された。

大聖人の御弘通の基本原理は、「立正安国論」であった。更に、「開目抄」において、御自身が末法永遠救世主たることを明かされ、「観心本尊抄」において、末法に弘まるべき法体「一閻浮堤第一の本尊」を示されたが、本抄は、その三大秘法広宣流布の流通分への確信をとる為に、弟子に託した未来記といえる。

冒頭に、「仏法を学せん法は、先ず時をならうべし」とあるように、およそ仏法を行ずる者は、まず「時」を習わねばならないと根本姿勢の標榜が、本抄の主題である。

仏教において、流布する上で勘案すべきことを示したものに、「宗教五綱」があり、それぞれ大事ではあるが、撰時抄においては、「時」をもっとの重視している。

何故ならば「機」というのは民衆のそれぞれおかれた環境、、条件に推移して変化するものであり、それに対し「時」は「機」よりも更に深く、生命の本質に脈打っているものであるからである。

「時」の仏法的概念

「時」の本質は、民衆の機の深層に流れる生命のリズムであり、意識するとしないとに関らず、生命が厳然と感知そている宇宙自然の運行も含めた偉大なるリズムと言い得、この上から時を知ることが全てを知ることになる。故に、「聖人知三世時」に「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人という」(974頁)と仏の特質として挙げられている。

「時」は一切の事象を包含してしまうので、一面時代の力ほど恐ろしいものはないし、一個の人間の力では抵抗しようもないことも事実であるが、時の流れをこのように運命的なものとのみ把握するのであれば、人々は絶望し、無常の人生を歩むだけとなるが、「時」の実体を知れば、ただ時の流れに恐れおののき、拱手することはないはずであり、「時」に迷うことはなくなる。

また釈尊は「大集経」で、滅後未来の時を5つの500歳に区分して、それぞれの時代の特徴を定めた。この原理は釈尊の説いた仏法の力が時代を経るにしたがって、いきおい衰微していく過程をといた仏教史観であり、実際の歴史にも符合している。本抄では、各々の時代の民衆の機に応じた智者が出現し、その時々の正法が流布した事実が述べられている。

「大集経」によれば、

1.第1の500年を解脱堅固

2.第2の500年を禅定堅固

3.第3の500年を読誦多聞堅固

4.第4の500年を多造塔寺堅固

5.第5の500年とそれ以降を白法隠没、闘諍言訟と区別し、

1,2の1000年間を正法といい、この時代には、迦葉・阿難によって小乗教が、また竜樹・天親等の人師によって権大乗教がひろまった。

3,4の1000年間を像法といった。この時代は像、すなわち形・形式・様相が主体となる時代で、中国天台、日本伝教が出現して、文上法華経が広宣流布したが、中国では唐末、武宗の代に外道道教)が用いられた為に中国の文明は衰退し、日本では一時平安文化が栄えるも、以後日本天台宗内部の腐敗・堕落によって、貴族・形骸化し、並行して社会自体も終末の様相を呈し始め、平安末期から鎌倉時代へ流れ込んでいく。

5.以降を末法という。五濁が強盛で悪世という時代相を形成していく。その内容は、「立正安国論」にくわしく述べられている。

立正安国論」と本抄との相違点

「五大部」の中でも「立正安国論」では、当時の三災七難の原因は思想宗教の濁乱にあることを指摘され、その根本解決の方途を随自意立場から強く「立正」を叫ばれた。

曰く「汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰えんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊(やぶ)れんや国に衰微無く土(ど)に破壊(はえ)無くんば身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん」と、時の権力者に対して謗法を断ち、妙法の信仰をすることによってはじめて社会平和文化を打ち立てられることが出来るという原理を教えられたものであったが、「撰時抄」では、そもそもこの末法という時代こそ南無妙法蓮華経が興隆し広宣流布する時であり、それが時代の流れであると定めておられるとし、その大法を弘め、民衆、社会に覚醒の力与えていく大聖人は一切衆生に対する三徳具備の教主である、という「時」と「三徳」の2点を明かす事が、「撰時抄」の元意であった。

また「立正安国論」では社会の悪化の一凶を念仏と定められたが、本抄においては、念仏の流布を権教の題目の流布とされ、権教の題目が流布された以上は、実教の題目たる南無妙法蓮華経が流布することは間違いないと言い切っておられる。これは五綱の「教法流布の先後」に約して、妙法流布の歴史的必然性を示された。

「佐前・佐中・佐後」

御書五大部」を、1.御流罪以前「立正安国論」 2.御流罪中「開目抄」「観心本尊抄」 3.御流罪後「撰時抄」「報恩抄」で枠組むと、御弘通の在り方と破折の対象に明確な立て分けがあること分かる。これを、師弟と順逆の広布に約せば、大聖人の慈悲の行動に対して、時の社会・民衆・幕府が報いたのは死罪・流罪といった王難であった。これは師の戦いであり、逆縁広布とみなすと、すでに御在世においてすでに広宣流布は実現したといえるし、以後の弟子の戦い、順縁広布を弟子に託されとのが佐渡流罪以後の御弘通のありかたであった。

次に破折の対象であるが、「撰時抄」前半において、正像末における印・中・日に及ぶ克明な仏教史のインセンティブをつけている。その次に当時の日本に充満している災に3あるとし、念仏、禅、真言宗の3宗を破しておられる。前述のように「立正安国論」では一凶を念仏としたが、「撰時抄」では特に別して真言宗を、念仏、禅とは似るべくもない大僻見と定義されている。

流罪以前、大聖人の破折の鉾先は専ら念仏・禅に向けられ、以後は主として真言へと変化してきているが、では始めから真言に対する破折については全くお考えになられておられなかったのか。確かに、「立正安国論」とほぼ同時期に著された「唱法華題目抄」(1頁)、「守護国家論」(36頁)を見ると、寧ろ真言宗天台宗を同等に扱われているような趣さえある。が、既に建長5年(1253年)の立宗時点で「真言亡国」と明確に言及されていることからも、ここには「所破・所顕」の二義があり、大聖人の「時を選取しての所破の次第」であったと拝される。「三沢抄」に、「此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時あことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ(内内)申すならばひろう(披露)してかれら(彼等)し(知)りなんず、さらば・よもあ(合)わじと・をもひて各各にも申さざりしなり」(1489頁)と、実際には以前から真言を社会民族の滅亡の元凶として、公場対決のよって理論闘争の決着をつけようと考えられていたことが伺われる。真言破折こそ御一生の他宗破折の完結であり、従って佐渡以降、もっぱら真言を破折し、三大秘法の仏法を顕したのである。さらには一念三千の実体である大御本尊の建立にあたって、台家から一念三千の義を盗み取って自宗の教義であるかのように宣揚し、騙った真言の誤りをただし、真実の一念三千の法門を世に知らしめんがために、本抄において、真言を「極邪宗」と痛烈に破折を加えられたのである。

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