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2007-03-01「摂受と折伏」・折伏の根本精神 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

「摂受と折伏」・折伏の根本精神

【しょうじゅとしゃくぶく・しゃくぶくのこんぽんせいしん】

白蓮華昭和31年5月号に掲載された、戸田先生と若き池田先生、時の大幹部の座談会

 小平 折伏の問題は入信する前から聞かされてしかも最後まで私たちの切実な問題になるわけですが、摂受折伏と、それから折伏根本精神といいうようなことについてお願いしたいと思います。

摂受折伏

 辻 随自意御書というのがありますけれども、摂受は随他意になるわけです。相手の意に合わせてやりますから・・・・・・。折伏随自意になるわけでしょう。自分の意志に従って、相手が賛成しようが反対しようが、かまわずに、どんどんやるわけだから。『摂受折伏時によるべし』という文で、その時を相手によって時が変わるというように解釈する人がいるのです。

 戸田 その『時』が大事なんだ。それは正法、像法、末法という時なんだ。決して、その時、その時といわけではない。(笑)正法、像法、末法というように読めば、時の解釈がつきます。

 辻 『末法に摂受なきにあらず』というのはどういうふうに読むんですか。

 小平 ええ、開目抄の・・・・・・。

 戸田 『末法に摂受なきにあらず』という文は、大聖人様が法体の広宣流布をなさっている、あれがひなのです。それで今度の化儀の広宣流布には折伏の中の摂受なんかも、ないんだよ。

 それは、700年の間には、徳川時代のような時があった。あの時代に貫主様のなさっていらっしゃる行躰摂受

なんです。折伏の中の摂受です。折伏という大きな舞台からみて、摂受の分という意味です。

 それはしかたがないのです。日寛上人様の時代には、今のような折伏をやる人もないし、やったらまた、首を切られてしまう。そういう意味だと、わたしは思うのです。

 辻 信長みたいな、無茶な奴がいると法論させないで、政略のために、お前の方が負けだなんて首切られてはたまらないですから。

 池田 四悉壇で、第一義と対治(たいち)悉壇を折伏とし、為人と世界を摂受の部類に入れるというのは・・・・・・。

 戸田 それは、それで良いんでしょう。四悉壇を必ず心にかまえてやらないと、ならないんだから。それを為人や世界悉壇を摂受と決めるのは、おかしい考え方だけれども、やっぱり折伏という大きな世界からの摂受になるのではないのではないですか。

辻 はじめから御本尊の話を出したいんだけれども、商売の話をだしたいんだけれども、商売の話を、まずと・・・・・・(笑)

 戸田 そういう意味だけが摂受というのかね。摂受摂受というけれども、摂受とは、そんなものでは、ないんだろう。摂受というのは、日寛上人様みたいなやり方が折伏の中の摂受ではないのか。一国の将軍だとか、殿様が帰依して、それで奥方なんか帰依して山門も作れば、お山を立派にし、それに日寛上人様が広宣流布のときのためにと残された二百両という金は大変です。小判です、小判一両は四匁ですから。そうすると、四匁といえば今は一匁2500円だから、一両は一万円です。二百万円というけれども、今の米に換算すれば、そんなものではないだろう。それを総本山に残して、そして大石寺の興隆をはかられた。それにまた日寛上人は、上野村では大変な人気なのです。ああいうのを摂受というのです。折伏をりっぱにしていらっしゃって、それで、この摂受なのです。そうではないですか。日寛上人さまは、摂受の一番良い手本です。

 池田 折伏の中の摂受・・・・・・。

 戸田 そうです。それで六巻抄をお作りになって、弟の弟子どもに、ちゃんと指針を与えて、そして一切の使命を果たされ、ご臨終にはソバ食って死なれたんだから、(笑)あんなのを摂受っていうのだろう。折伏の世界の・・・・・・。

 辻 そうしますと、現代のわれわれの場合などは、世界悉壇でも為人悉壇でも、りっぱな折伏なんですね。

 戸田 そうです。四悉壇は全部使いこなしていいということです。

 辻 第一義ばっかりやっているんでは、青年部だ。

 小泉 青年部だって第一義、対治悉壇だけでは折伏はできないものねぇ。

 池田 できません。

 小泉 ・・・・・・「御本尊!」といって、あとはなにもいわないのでは。(笑)

 戸田 「その御本尊の体は何ものぞや」「妙法なり・・・・・・・」(爆笑)第一義でいいのです。

 小平 同じ摂受でも、正法、像法時代の摂受と混同すると、おかしくなる。

 戸田 そうそう、そうなのです。

 白木(義)そうしますと、観心本尊抄の『折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って−−−』

 戸田 学会の活動が、その原理に向かって進んでいるんだけれども・・・・・・。暴力宗教と書かれているが、あれは困る。この前、立正佼成会暴力というのが出てきたけれども。学会なんか、何ら暴力でないのに、暴力暴力といわれるんだ。折伏の力それ自体がずいぶん強いのです。

 池田 われわれには当たり前であるけれども、当たり前でない世界からみると、そうかも知れません。

 戸田 罰論なんか、一番こわいのです。

 小泉 あれは、おどかしだと思っている・・・・・・・。

 戸田 しかし、本当に当たるから、しようがない。(笑)

 辻 牧口先生は、折伏すると罰と信用が残ると、よく言っていました。

 小平 上役なんかは、折伏しなさい。罰と信用が残ると・・・・・・。

 謗法払い先祖の墓

 小泉 謗法払いを、神棚や仏壇を焼くというように感違い(ママ)しているのがある。

 池田 ああ、それは、新聞だ。

 小泉 ええ、この前も話が出たんです、『君の方だろう、仏壇も神棚も、みんな焼いたのは』なんて、『そんなぜいたくなことをするもんですか、そんな不経済なことはしない』と言っておいたけれども。

 小平 学会員でもどうかすると仏壇を焼かなくて良いですか、なんて、とんでもないことを言いだしたものがあった。もちろん、そんな不経済なことをするな、といってくればよい・・・・・・。

 辻 そういうふうな質問は、たまに、地方にいっているとぶつかります。

 戸田 こういうふうな、大きな、対策をたてようと思うのですが。これこそ摂受だ。これは謗法にもならないと思うんですが。その一つは邪宗の寺に、墓をもっているでしょう、そうすると、みんな墓へ金をもっていってはいけないように思っているでしょう、邪宗の坊主のところに。あれは、やっていいと思うけれども、どうだろうか。これは謗法になるかなあ・・・・・・、わたしは、瑞正寺という寺から土地を借りているのです。そして地代を払っているのです。そうすると、借りている墓の地代

を払ったっていいではないか。

 池田 ははあ。

 戸田 だから、邪宗だからなんでもかでも金をやらないといったら、これは喧嘩腰です、家をどっかへ持っていかなくてはいけないが、そんなかんたんに家を持っていくわけにはいかない。今みたいに金のかかるときに、墓所の石なんか持っていかれません。両方とも同じことではないか。

 小泉 墓の場合は地代といわないで、管理料というのです。霊園というのが東京に七つばかりあるのです。

 戸田 そこでは、やっぱり金をとってるわけです。

 小泉 管理料、前には掃除料といった・・・・・・。それは今度は管理料とかえたんです。同じことなのですが。

戸田 それをいくら取っているんだ。

 小泉 今、それを調べているが・・・・・・。

 池田 何年たったら無縁になるんですか。

 小泉 それは、調査をしてから丸三年たってから。

 戸田 すると、自分の親の墓を、・・・・・・かりに今、君のいう法律が正しいとすれば、三年間というものは、掃除料も管理料も払わずにおいて、無縁にされるおそれはない。だから・・・・・・。

 小泉 そうではないのです。やらなくっても良いのです。無縁にはできない。

 戸田 仲々やかましいぞ、これは。

 小泉 いるということがわかれば。完全に行方不明で、どこにも縁者がいないということがわかってから三年です、あれは。いればだめです、金がなくて出せない人がいるのだから。滞納みたいなものですから。家賃もなかなかなのに、できないといえば、しょうがない・・・・・・。(笑)

 戸田 そういうことになれば、指導法が、そう、お山にばかり墓つくるわけにはいかないんだから、邪宗の寺も借りなければいけないんだから、邪宗の寺も借りなければいけないんだから。だから、墓代は払えといっても、謗法ではないとわたしは思うんだが、折伏をするときに。

 辻 そうなれば、ずいぶん気が楽になって・・・・・・。(笑)

 小泉 別な考えで、やっぱりお寺さんにやるなんて、邪宗に供養をするような考えでやるとたいへんです・・・・・・。

 池田 そうですね。

 戸田 それで、その精神が問題です。精神の問題だ。あくまで地代を払うので供養をするのではないのです。ここで、永貸借地権があるのだから墓代を払えと、借りた土地の代金は払えと。そうした方がよいと思う。まさか今すぐ正宗で墓を全国につくるわけにはいかない。寺だけでたいへんなのに、墓まで作ったらこれまたたいへんだ。

 小泉 今、佐野に一つの問題がおこっているのです。あれは、金を払う問題ではなくて、骨を埋めさせない。宗旨替えするんなら、掘り返して、もっていけという。驚かされて、掘り返して、もってきた。

 戸田 どうして、また・・・・・・。

 小泉 新しい骨を埋めた。そしたら総代から村の顔役から村の坊主といっしょになって、それで掘り返せとおどかされて、それで掘り返して・・・・・・。

 戸田 警察に、それをいえば良いのに・・・・・・。

 小泉 それは今、警察の方でやっているのです。警察の方で入って、しばらくの間、待ってほしいといっている。今、研究中なのです。

 戸田 研究はよかったね。(笑)

 小泉 だから、ゆっくり研究させろといっただけです、今度だけ今のところ一つだけですから、しばらくの間、研究させる。

 池田 本人が承知しないと、掘ってはいけないのです。

 小泉 驚かされて本人が掘ってしまった。人が掘ったら、それこそ大変です、これは。

 戸田 だから、墓代は払えということにしたらよいだろう。すると、ここに別の意味が出てくるのです。

 正宗の信者が墓をたくさんもてば、邪宗の寺に金が入る、そして正宗がふえればふえるほど、お寺が邪魔しないのです。これを摂受という。(笑)

 小泉 早く学会員になってくれ、か(笑)おれの檀家は正宗の信心をしてくれとなってくる。(笑)

 戸田 そして、墓をきれいに掃除に行って、それで、お寺へお金を入れるのです。それは謗法にならないと思う。

 小泉 ならないでしょうね。

 戸田 そういう考え方が、摂受ではないかい。日寛上人に聞いたら、よろしいと、こう、おっしゃるにちがいないと思うけれども。

 

 折伏と慈悲

 小平 それでは、次に折伏につきまして。よほど、いなかの、あまり信者がいないところでも、折伏をなぜするかとか、どうとかいう質問がでます。そのときこちらから「折伏根本精神はどこにあるか」と反問しますと、たいてい「慈悲です」といいます。よほど、これし徹底している。学界全体に徹底していると感じますけれども。そういう点について。

 小泉 慈悲なんて、そんなに口でいうほどあるかな。口先きではいってますけれど、はたして慈悲でやっているか、どうかね。

 戸田 そこが問題なのです。

 小泉 御本尊送りまで、慈悲があるんだけれども、その後、慈悲がなくなって面倒を、みなくなってしまうなんて・・・・・・・(笑)どうもおかしいですね。

 戸田 これが問題なのです。布施ということに法施すなわち今の折伏と財施というものがある。その場合に、折伏するよりも金をやった方が楽なんだ。すなわち法施よりも財施の方がやりやすい。そうでしょう。1万円上げます、5000円上げます、と。ところが、それは財施といいまして、これは釈迦が、いつも説教している。『財施というものは限りがある』と。金をやると、それは、ちょっとの間は良いですけれども、そう、いつまでもやれません。

 『法の布施には限りがない』これは涅槃経の原理だ。ところが、最初のうちは、釈迦も、『財を布施しろ、金をやれ、物をやれ、みんな喜ぶぞ』と、ここまでやってきたものの、最後になると、金なんかやると、すぐなくなってしまうだろう。だから、『財施はいかん』『法施でなければいけない、法の布施には限りがない』と説法するようになった。これは、いくらやっても誰も困りはしない、宝物をやるんだからそういう意味です、折伏は。法施でしょう、財施ではない。といっても、財施をしてはいかんといってないんです。止めてはいないのです、ここが面倒なところです。財施はいかんといっていない。財施をしてもらわんと、ちょっと困る場合もある。だが、仏法の根本義は法施というのが折伏なんだ。だって法には限りがない。財には限りがある。限りがあるものをやろうという心情が意気地がない。折伏精神で自分では喜んでやっているつもりでも意気地がない。法施においては、勇気りんりんだ、限りがないんだから。それが折伏ではないですか、

 だから、物をやるんだから、法の施をやるんだから、やさしく、素直にやればよい。しかし先方では貰いたくないのです。たとえば百円札しかみてない人に、千円札をやろうというときはどうだろう、百円というのはえらいと思っている子供に、千円札をやるときは、ずいぶんなだめすかして、やらなければ行けないだろう。(笑)どうだろう。・・・・・・それ以上の御本尊様を渡すのだから。もうことこまかにいって、怒ったり、文句いったりしないで、やさしくいってきかせて。そんなものではないですか、御本尊様の法施も。わたしは、そう思う。

 白木(薫)そうです、百円札一枚よりも、十円玉二つの方が子供は、喜んでもらう。みんなそうですから。まして御本尊様は千円札の何十万倍、何百万倍という功徳があるものですから。折伏が大変なわけだ。

 小泉 結局、御本尊様の値うちの説明がたりないから。こっそり、もう返していったり、・・・・・・(爆笑)使い方をしらんのだもの。値うちがわからないのだ。

 戸田 あれが十万円束の宝物だと思ったら、だんぜん返さない。

 小泉 返せといっても返さない。半分でもいいから、残しておいてくれと頼む。(笑)

 戸田 法施ということを知らないのです。邪宗教と、わが日蓮正宗との相違は財施と法施との相違もあるのです。

 資本主義的にみているのです、邪宗は。みんな、そうですよ。お金を出さなければ、さい銭を出さなければ、もうからないと。立正佼成会など、みんなそうです。お金をあげないのに、もうかるわけはない、とこういうのです。だから、あげなさいという。あげたってもうからない。それが全部です。それが財施。それが邪宗の不施行精神です、全部がそうです、よくみてごらんなさい。学会だけです、あげようと、あげまいと、そんなことはかまわん、こっちから法の施をせよ、それが折伏なのです。そして、御利益がでたら、法華経のために供養をしなさいと。そこが邪宗と正宗とのわれわれの行動との相違だろう、どうです。財施というものを根本におかずして法施を根本にして、そして、それが折伏という名前になっているのです。御本尊を与えるんだもの、千円札をやるんだ、千円札を。十円玉だけしかしらない人に千円札をやるのです。それが折伏ではないか。それが日本知識人にわからない。わからしてやろうとしている。そういう精神がなければ絶対にわかりません。だから折伏なんか無理にする必要がないのです。ところが自分が法施の位置にたてば、やらざるをえなくなってくる。その差のです。それを持たされば喜ぶだろうと思って、やるだろう。もらった方が大変だと思う。この千円をどう使って良いかと思う。それは折伏の原理です、もう。法施では、財施ではないんだから。

 辻 それを、みんな間違っているのです。

 戸田 私は日女御前御返事の御書を読んで、「鵞目五貫・白米一駄・菓子其ノ数給び候いおわんぬ」大聖人様も、ずいぶん、まあ簡単に御返事を書かれたものですね。銭五貫文なら大変なものです。どれくらいあるかな。たとえば百姓家の女中が手伝いにきます、それで、大聖人のところに銭五貫文をもってくるのです、すると女中がどのくらい驚くか。大変だ。村中評判になってしまう。五貫文なら大変なものです。二文銭をもっていたらなんでも買えるのですから。(註・一貫は一千文)それほど金の価値が高いときに、しかも身延で、あそこに五貫文の金があったら、大聖人様はどれくらいお金持ちであったろうか。

 小泉 山の中で使いきれないでしょう・・・・・・。(笑)

 戸田 村の人は、こういうだろう。大聖人のところには、銭五貫文ある銭五貫文あると、評判が高いです。それで波木井(はぎり)が貧乏なのです。大聖人滅後、借金して釈迦像を作ろうとして御開山に止めろといわれたんだから。ともかく金がないんだ。そういう時代なんだ。経済学をやると、わかる。大聖人がどれほどお金があったかがわかる、大聖人はお金なんか欲しくないんだから。供養をうけてやっておられるのです。そこがまた問題なのです。だから豊かなんだ。こい、折伏してやると。そういうわけです。

折伏の功徳と根本精神

 池田 どういう気持ちで御本尊様をもたしても、功徳は変わらないのでしょうか。たとえば慈悲のない折伏は功徳が少ないような・・・・・・。

 戸田 変わらないのです。

 『発心真実に非ずとも正境に縁すれば功徳なお多し』だから、いいのです。折伏さえしていればいい。そうすればかならずご利益がでてくる。自分は、あいつを信心させれば金があって、あいつからとれるなあなんて思っても、いいのです。本人の方が今度は真剣になれば、よいのです。それは、無量義経にその精神がある。自分の方は信心がだめだ、しかし、それを教えれば教えられた本人はよくなるという原理が無量義経の十功徳品にあるのだから。折伏を、すなおに、どんどんしなさい。それから、人を憎んではならない。けんか口論はいけない。まじめに、やさしく教えればよい。その教える精神ができれば。それで反対すれば本人がだめになる。やさしく教えるという気持ち、恋愛みたいなものです。(笑)

 池田 折伏をするということが、即自分自身を折伏しているんだということに通ずるでしょうか。

 戸田 それでは、教えよう。最後の一問を教えます。自分自身が南無妙法蓮華経で生きているということです。それ以上に折伏はないのです。覚えましたか。手練手管(てれんてくだ)も方法も何にもありません。ただただ俺は南無妙法蓮華経以外に何にもない!と決めることを末法の折伏というのです。それ以外にないでしょう。どういうふうにやったら南無妙法蓮華経が弘まるか、どのようにやったら南無妙法蓮華経がよくなるか、人によく教えられるか、そんな方法論は関係ありません。みずからが南無妙法蓮華経だ!と決めきって、決めきるのです。俺はそれ以外にない、悪ければ、殺しても死んでも何でも仕様がないと、自分は南無妙法蓮華経だと決めるのが、最後の折伏です。

 池田 ははあ、それは簡単です。・・・・・・(笑)

 戸田 そう、簡単なのです。どうにでもいおうと思えば無限にいえるけれども、しかし真義はそれしかない。私は南無妙法蓮華経に生き、富士大石寺の仏法を信じ、それから御本尊様を拝む、それで損させた者は大いに悪い、梵天帝釈たりとも許さない、その覚悟でやればいいのです。

 私が大阪に行ってきた時のことですが、それはすごく身体が痛む、第六天の魔王を呼び出したんだ。俺はだるい貴様は一体、ボヤボヤしている、俺の身体をだるくしている。俺をだるくさせるようなことをするようなやつを、どっかへ、つん出してしまえと。(笑)梵天帝釈殿と、殿の字をつけてやった。お前もどこか、おかしい、俺が大阪から帰ってきてだるいと言うのに、しっかりしろと。そしたら、スーッとした。諸天もかせぐのです。(笑)

 折伏というのは、そういうわけです。折伏なんて、なにも最後に問題がない。われみずから南無妙法蓮華経なりと、決めきって後、本尊流布をすることです。

 心に折伏の大精神があるのです。他になにもないではないか。ありますか。

 小泉 ありません。

 戸田 そこを聞けばなんでもないのに。いいか、二度いったんだからね。

 折伏と生活の両立

 小平 次に世法との関係。商売と折伏との関係、勤めと折伏・・・・・・。

 白木(義)よく先生が「中道法相だ、片よってはいけない」とおっしゃるんですけれども、新しく入信してきた人は、やっぱり、こっちの言い方が足りないのか知らないけれども、片一方に走ってしまって、それから、飯がくえなくなったのが、たまにあります。

 辻 勤めの目的をはっきりさせれば良いのです。信仰してない人が腕が良くて、信仰しているのは腕がにぶいと。自分が一人やとうんだけれども、信仰しているから、こっちをやとう方がいいでしょうか、なんていうのも、質問を時々うけるのです。商売は何のためにやるんだ、もうけるためにゆるんだったら、腕の立ったのをやとえばよいではないか。腕の悪い人では仕様がにい。信仰関係ないといったんだが。

 戸田 信仰関係はない。世法というのも、これは面倒なのです。そこで世法ばかり立ててやると、今度は信仰の良いものが出て来ないのです。信心が透徹すれば、世法はなんでもなくなる。根本は信心です。もう、仏法に透徹すれば、世法のことは簡単なものです。仏法に透徹する以外に、世法の細かい技術なんていうものはないと信ずる。あっても、そんなことはどうでもよいことではないですか。信じてしまえば。わしは世法では負けません!世法で僕を攻撃してくる。これでは僕は負けない。断じて負けない。もうこの辺でよいだろう。

 一同 どうもありがとうございました。

≪【座談会「『摂受折伏』・折伏根本精神」 1956-05/『大白蓮華昭和31年5月号】≫

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