三惑

三惑

【さんわく】

「さんなく」とも読む。三惑とは、見思惑(けんじわく)・塵沙惑(じんじゃわく)・無明惑(むみょうわく)のこと。開目抄上に「元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へり況や見思枝葉の麤惑(そわく)をや」(188頁)と三惑の名をあげられている。釈迦仏法においては、苦しみの原因は煩悩にあるゆえに、煩悩を完全に滅すれば一切の苦悩は消滅し、ただちに成仏の境地を得ることができると説いている。この煩悩の数は八万四千あるが、性質の上から大別すると界内(かいない)見思の惑・界外(かいげ)化導障塵沙の惑・中道障無明の惑という三惑に分かれる。(御書393頁)

 第一に見思の惑とは、三界六道の苦果を招く惑であり、更に分けて見惑と思惑とする。見惑は事物の道理に迷う惑で、また十使があり、五利使(ごりし/身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)と、五鈍使(ごどんし/貪・瞋・癡・慢・疑)で、更に三界の四諦(したい)にあてて八十八使となる。見惑は倶生惑(ぐしょうわく)といって、生まれると同時についてくる煩悩、欲界に貪・瞋・癡・慢、色界(しきかい)に貪・瞋・慢、無色界(むしきかい)に貪・癡・慢とあてて八十一品とする。

第二に塵沙の惑とは、二乗菩薩修行の過程で、小果に執著(しゅうちゃく)し、空理に執着し、あるいは化導の障りとなる等の惑で、その数が無量のところから塵沙惑と呼び、大乗の大菩薩だけがよくこの惑を断破することができる。

第三に無明惑とは中道法性を障(ささ)える一切の生死煩悩根本であり、別教には十二品、円教には四十二品を立てている。四十二のうち最後の無明惑を元品の無明といい、これを断じ尽くせば仏になれる。

以上の三惑は、釈迦仏法において浅きより深きに至る立て分けであるが、末法の今日において根本の惑はただ一つである。すなわち三大秘法の大御本尊を信じない者が元品の無明惑であり、信じ奉る時には無量の惑がたちまち断破して、煩悩即菩提・生死即涅槃と開覚するのである。

「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」(751頁)

「此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり」(725頁)

「法華宗の心は一念三千性悪性善妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997頁)

これらの御金言のように、我々は信心修行の過程にあって心していくべきは、元品の無明、第六天の魔王との戦いである。