伝教大師

伝教大師

【でんきょうたいし】 767-822年


日本天台宗の開祖。諱(いみな)は最澄


幼少期から出家まで


もと大陸系の出自で、父・三津首百枝(みつのふひとももえ)の先祖後漢の孝献帝の子孫、登万貴(とまき)王であるが日本を慕って帰化

幼少より聡明で12歳で出家し、19歳の時比叡山に登山。20歳にして具足戒を受戒。以後法華経・金光明経、一切経を学び、思索。その後天台三大部に巡り合い、その奥義を極める。

31歳の時、桓武天皇によって、内供奉に列せられる。延暦21年(802)36歳の時に和気弘世(わきのひろよ)の懇請で、彼の氏寺である高雄山寺において、天台三大部の講演会を行った。この講演会には当時の南都六宗の代表的な学匠十余人も参加し、天台教学に対する考えを発表したが、ここに伝教との優劣が明白となって、桓武天皇は講演の成果を評価し、一方において南都六宗を責めたという。またこの事が天台宗独立の契機となったという。


留学


延暦23年、還学生{(げんがくしょう)=現在の国費留学生}として当時の唐に赴き、妙楽大師の門下にあった、道邃(どうずい)、行満(ぎょうまん)から天台法門である、一心三観・一念三千の奥義を授けられた。特に、道邃からは大乗の菩薩戒を授けられるなどして、この度の入唐は多大な影響を伝教に与えた。


と迹門戒壇建立


した翌延暦25年(806)、天台宗開創の公許を得たが、旧勢力の南都派との対立が強まったが『照権実鏡』を著して法相の得一を論破し法華最勝の義を高揚。更には迹門円頓の戒壇の建立を上奏するも、またしても南都側の強烈な反発にあい、破折のために『顕戒論』で反論した。しかしながら、それでも大乗戒壇の建立は生前には許可されなかった。


相承と入滅


その後、一切を義真に相承し、弘仁13年6月4日(822)、56歳で入滅。仏法上は天台大師の後身(化身)ともいわれ、生涯、桓武平城(へいぜい)・嵯峨天皇の帰依を受け、大乗戒壇(迹門戒壇)は入滅後7日後に許可された。

著書


『註法華経』『守護国界抄』『法華秀句』


《付記》「でんぎょうだいし」とも読む

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