報恩抄

報恩抄

【ほうおんしょう】

「五大部」の一つ。建治2年7月22日身延において御述作。

建治2年3月16日、初期の修行期を過ごされた清澄寺における旧師、道善房が逝去した。その報せが大聖人に入ったのが6月であった。『報恩抄』は、この道善房にたいする報恩謝徳の意を込めて著された書。

この人物は不甲斐なく臆病であったが、一度師恩を受けた師僧である。本文に「浅はかな師匠であるけれども、死去の報を受けた時は、火にも入り、水にも沈み、走って墓に参って読経したい」(趣意)と述べられ、旧師の死を悼む、一人の人間としての大聖人の姿が浮き彫りにされている。

本来ならば、御自身が直接回向したいところであるが、世間には自分は遁世の身に映っている故、不本意ながらも差し控え、代りに認められたのが本抄である。

本抄は弟子の日向に託し、兄弟子であった義淨房、淨顕房のもとに届けさせたのである。この日向は、小松原の法難の後、房総方面の弘教につとめていた折、得度したと伝えられている。また同年正月清澄の同志の人達を教誨するために著された『清澄寺大衆中』を読み聞かせよと託された人物でもあることから、日向が自分の出身地の安房方面の指導的役割を担っていたと窺われる。

義淨房、淨顕房は、まず本抄を日向を読み手として、嵩が森の頂上で2、3遍読み、次いで墓前で1遍読み、以降日向に預けて常に本抄を聴聞学問することを指示されている。二人はこの言い付けを忠実に実行し、故人の為に本抄を読み、回向を行い、この事を大聖人は大変喜ばれ、後年礼状を送られたのが、『華果成就御書』である。曰く「さては建治の此(ころ)・故道善房聖人のために二礼かきつかはし奉り候を嵩(かさ)が森にてよませ給いて候よし悦び入って候」(900頁)と。

尚、古来他門においてこの場所を、「山高き森」と読む向きもあるが、これは甚だしき誤読であり、「嵩が森」と解釈するのが正しい。

大意

長文の御書となるため大意をおおまかに要約すると、

1.報恩は人間として当然であり、

2.『開目抄(上巻)』に「父母の家を出(い)でて出家の身となるは必ず父母をすくはんがためなり」(192頁)とあるように、真実の報恩は、寧ろ世間の恩を捨てて仏道に入る事であり、

3.大聖人御自身の修学の旅のありさまが縷縷述べられ、

4.三時を洞察し、釈尊→天台→伝教と仏教の正統が受け継がれてきた事を明かされ、

5.御自身における受難の歴史をかえりみ、これを妙法根本立場より、真言密教が他国侵逼、亡国の原因であるとの主張に帰因すると説かれる。

破折の順序としては、

浄土宗→禅宗→律宗→真言宗となるが別しては真言を責破されている。特に真言密教(真密)を導入して日本天台宗の正統を破壊した慈覚・智証を厳しく論破された。

上記の論理佐渡以降顕著にあらわれており、本抄にも『法華経勧持品第十三』の如説修行とその結果を示され、佐渡赦免直後の第3次国諌後の、文永11年5月に身延入山の経緯を記述されている。

これらの御難はもとより御覚悟の上であったが、これらの難を顧みず弘通をされたのは、父母・師匠・三宝・国の恩に報いる為であり、身口意で弘通した功徳によって、父母も道善房も救われたであろうと、末法の御本仏としての報恩をあかされたのである。

三大秘法の開顕

撰時抄』で明かされた「時」とは、末法における弘通の時期の到来であり、いわば三大秘法広布の序分の役割であったが、部分的にではなく『御書五大部』で三大秘法義が整足されきった姿で説き顕せられたのは、本『報恩抄』以外にはなく、これは画期的な出来事である。『報恩抄送状』に「此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ」(330頁)とあるのがこれである。

妙楽が「脱は現に在りといえども具(つぶさ)に本種を騰(とう)す」と釈したように、およそ釈尊、その他の仏菩薩悟りの核心には必ず南無妙法蓮華経が存在している。

ここでは延山入り直後に著された『法華取要抄』に「本門の本尊と題目の五字となり」(336頁)と三大秘法の名言があるが省く。また、三大秘法の個々の義についての説明、受持即の観心についても省く。

一閻浮提に未曾有の、三大秘法の南無妙法蓮華経を弘めるにあたっての大難はひとえに末法の一切衆生の様々の苦を全て我が一人の苦とされる大聖人の大慈大悲の故に他ならず、末文に「日蓮が慈悲日廣大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし日本国の一切衆生盲目をひらける功徳あり無間地獄の道をふさぎぬ此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」(329頁)との、妙法弘通の功徳が烈々たる思いを込めて明かされている。一往は、この功徳は道善房に帰せられてはいるが、再往、元意の辺においては末法の衆生、万機万縁であることはいうまでもない。

総結

主題の報恩の、「恩」については、仏法上の恩に対する考え(菩薩の実践規範である慈悲の精神が基本)が

本抄を読む上で肝要である事は明白であり、また『四恩抄』(937/938頁等)や経典では『心地観経』等により詳細に明かされているので省略するが、代表的な恩の概念についてまとめると、

即ち、縁起観を基とする他者との関りのなかで生れる恩。

三徳との関連から生ずる恩。

或は三宝に対する恩。

が基準となるが、ここでは、報恩の本質は、『華果成就御書』の「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり」(900頁)との、「法」そのものに絶対性をおいた上で、ともどもに「法」に向かって進んでいく同行の関係に着目する。即ち、弟子が師匠の理想、指導原理を後継し、師匠よりさらにその目的に近ずき、目標を達成し、結果として、法による功徳を師に及ぼすことが、師への最大の報恩となる意が、本抄の主眼と思われる。但し勿論、人間が平等にこうむっている四恩を知り、報恩の術を知る事が前提で、その上で正しい師匠をいただき、恩を報じていく中に通じては父母・民衆・社会への恩を還元していく事につながることはいうまでもない。この実現こそが、現代世界のあらゆる危機的状況から人々を救うという最高の価値創造が含まれていると確信することが、『報恩抄』の核心である。