師曠

師曠

【しこう】

 先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いし処仰せ候いしが如く少しもちがはず候いき、これにつけてもいよいよはげまして法華経の功徳を得給うべし、師曠が耳離婁が眼のやうに聞見させ給へ、末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし(「椎地四郎殿御書」1448頁)

春秋左氏伝の魅力と怪


【『春秋の色』宮城谷昌光講談社文庫)】


 春秋左氏伝には怪事とよんでもさしつかえないようなことがいろいろ書かれている。

 そのひとつに、

「石がものをいった」

 ということがある。そのことがあったのは魯の君主の在位年次でかぞえてゆくと、昭公の8年目(紀元前534年)のことである。問題の石は、魯の国内にあったわけではなく、晋の魏楡という邑(まち)はいまの太原市(山西省)にあったわけだから、ずいぶん北でおこった怪事が晋の首都新田(しんでん)につたえられたことんある。

 そのとき晋の君主は平公(へいこう)であり、かれは側近の師曠(しこう)に、

「なぜ石がものをいったのか」

と、問うた。師曠音楽家であり、琴の名手であるが、博識であり批判力旺盛な人であるから、すぐさま、

「石はものをいうことができません。あるいは神が憑(つ)いたのかもしれません。そうでなければ、民のききちがいでしょう。わたしはこういうことをきいたことがあります。事をおこなうのに時に適(あ)っておらず、怨嗟(えんさ)が民間に生じると、本来ものをいうはずのない物がものをいうことがある。ところで今お造りの宮殿は高大でぜいたくなものです。民力は尽きはて、怨嗟がつぎつぎにおこり、民は死にかけております。石がものをいうのも当然ではありますまいか」

と、いって、平公をいさめた。

 天変地異為政者の失徳をあらわしているといわれる。怪異なことがおこったときもそうである。

平公は師曠の諌言に耳をかさず、石がものをいったという怪事を軽視して、豪華な宮殿を完成させた。が、そのことから晋の君主の権威はめだっておとろえるようになった。(74p)

【初出は『小説現代』1993-9月号】