感応道交

感応道交

【かんのうどうこう】

衆生がよく仏の応現を感じ、仏がよく衆生の機根に応じて互いに通じ合うこと。感は衆生の機感、応は仏の能応、道交は感と応が相通じて一道に交わること。略して感応ともいう。天台大師の摩訶止観巻一に「問う、行者自ら発心するや、他教えて発心せしむるや、答う、自、他、共、離、皆不可なり。但これ感応道交してしかも発心を論ずるのみ。子の水火に堕つれば父母騒擾(そうじょう)して之を救うがごとし」とある。また、感とは九界であり、応とは仏界であり、感応道交とは九界の衆生の智は仏界を境とし、仏の妙智は九界の衆生を境として、境地冥合することである。末法今時に約せば、感応道交とは三代秘法の御本尊に向かって事行の題目を唱えることである。観心本尊抄文段に如来滅後五五百歳観心本尊抄の題号に多意を含むことを明かしている中に、「四には事行の題目を含む。謂く『如来滅後五五百歳に始む』とは、即ちこれ末法事行の始めなり。『観心本尊』とは、即ち事行の題目なり。謂く『観心』即ちこれ能修の九界、『本尊』即ちこれ所修の仏界、十界十如既にこれ分明なり。豈法の字に非ずや、九界・仏界感応道交し、能修・所修境地冥合し、甚深の境界は言語道断、心行所滅なり、豈妙の字に非ずや」(『文段集』461p)とある。本門の本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱える時に、本門の本尊、すなわち仏界と、九界の衆生の生命が感応道交し、即身成仏を現ずることができるのである。

 汝今一念随喜の信を致す函蓋(かんがい)相応感応道交疑い無し(500頁)