立正安国論

立正安国論

【りっしょうあんこくろん】


文応元年(1260年)7月16日日蓮大聖人が39歳の時、幕府の最高権力者北条時頼に提出した第1回の諌暁(かんぎょう=いさめさとす)の書。「立正安国」とは“正法を立てて国を安んずる”との意。

建長5年(1253年)4月28日、大聖人が立宗宣言して以来7年間、正嘉元年(1257年)の大震災はじめ、天災地変、飢饉、疫病が相次ぎ、民衆が苦悩していた。仏典ではこれを三災七難と説く。本抄では、主人と客との問答・対話形式によって、三災七難が起こる根本原因を、金光明経・大集経・仁王経・薬師経の経文を引いて指摘。一国が正法を誹謗し、悪法に執着するゆえに災難が起こるのであり、悪法の「一凶」を断って正法に帰依すれば、災難を打開し、平和楽土が実現すると明かす。そして、世界の平和・安穏こそ、仏法の根本目的であるとされている。

また、この諌めを用いなければ、経文に照らして、三災七難のうち、まだ起こっていない自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん=内乱)・他国侵逼難(たこくしんぴつなん=外国侵略戦争)が起こるであろうと警告した。そして、正法たる「実乗の一善」に帰依するようにと結んだ。個人幸福社会の繁栄の一致を目指すという宗教目的が明確にされた一書。大聖人の生涯の宗教的行動は“「立正安国論」に始まり「立正安国論」に終わる”といわれている。


権実相対の含理が強く、主に法然の念仏の邪義を破折なされ、他国侵逼難と自界叛逆難を予見された。これは、護国三部経等に説かれる七難のうち、既に星・風・土・日・水(順不同)の災難は出尽くし、残るニ難は一国(一往鎌倉幕府)が法華経に帰依しなければ必ず起こるとの法華経に則った法理を明かされたものであった。

正嘉元年の地震をきっかけに正嘉2年(1258年)駿河岩本実相寺にて一切経(大蔵経)を閲覧遊ばされ、法華経の絶対性を御確信され、本抄の執筆にとりかかられた。この実相寺においては、「一大聖教大意」、「一念三千理事」、「十如是事」等が御述作されたとされている。

甚深の御高察と思われるが、第一回国主諌暁の書である本抄ではまず以て幕府の念仏への盲信を絶つ為、主に観経への破折に重点がおかれているためか、正法が何であるかを具体的には明かされておらず、代りにほぼ同時期に著された「十方界明因果抄」において法華経が即正法であることを別してお残しになられたと推察される。

勿論竜口の御法難以前における大聖人は地涌の菩薩の指導的立場にあたる上行菩薩の再誕として、未来に陸続と出現する後継の地涌の菩薩に対して、その実践のあり方を御示されている事は明白であり、その意味で本抄が伊豆流罪以前の諸御抄における法理の強弱ではなく、また佐前佐後期通じて古来「御一代の御化導は立正安国論にはじまり立正安国論に終る」というのは「立正安国論」が、大聖人が身を以て仏教者としての現実社会に対する姿勢のあり方を示されているからにほかならない。


立正安国論」の特質すべき点として、

1.宗教の分野で、現実政治を含んだ社会論を本格的にアプローチしたのが、「立正安国論」のみしかないということであり、とりもなおさず勿体なくも大聖人の御法門が僧侶という閉ざされた、特権的な(当時は阿練若といった)階級成分ではなく、現実に生きる民衆にとって不可欠の哲理を説いた宗教であることを示しており、仏法の役割を明確にしめされた書であるということである。尚、関連事項として、池田先生昭和51年10月24日の第39回本部総会(札幌文化会館)の歴史的な会長講演での、「創価学会永遠に民衆の側に立つ」、「創価学会の実践は、人間革命の運動である」、「創価学会は、仏法中道の大道を歩む」、「創価学会社会的意義は、平和を守り、人間文化の興隆にある」、「創価学会は、人間精神の自由、なかんずく信教の自由を死守する」の5項目に学会が立正安国の精神を正統に受け継ぐ団体であることをあの暗雲ひしめく時代に日達始め高僧等の眼前で明言された。

2.その社会論、政治論を、単なる機構・技術面ではなく、人間に原点をおき、人間変革によって社会的矛盾を克服していくことを末法万年の社会変革の根本原理として説いている。

3.自然環境の安穏までも含めた上で、絶対平和主義に立脚した社会の繁栄・安泰を説いているのは、「立正安国論」をおいて他にない。

等があげられる。


 身延曽存の真蹟は、大聖人滅後、幕府から門下に返却されたと伝えられるもの。身延所蔵の立正安国論真蹟『日乾目録』に、「一、立正安国論 最初御送状一紙 ……御正文二十紙合題号四百一行」とあり、身延に所蔵されていたが明治8年(1875年)に焼失した。中山の日実の「当家宗旨名目」では、「身延山の御本は公方への御本なり、有る人持参して買い申しけるなり(中略)此の時の身延山の貫主は日進の御代なり」としている。

 現在、「立正安国論」の真蹟として伝わっているものには、国宝に指定されている中山法華経寺の本と、京都本圀寺(ほんこくじ)の「立正安国論広本」の二本があり、更にいくつかの断簡が伝えられているという。これによって、大聖人ご自身が「立正安国論」を何度も書写していたことがわかる。国宝中山本は、二十四紙目が脱落しており、身延曽存の真蹟から模写して補ったことが、二十四紙の文末に記されている。「此の一紙身延山に於いて御真筆之安国論を以て之れを写し奉る 慶長六辛丑壬霜月六日 日通(花押)」。日通身延12世であることから、身延山久遠寺に、かつて中山本とは別の真蹟が伝わっていたことを示している。

【『日蓮伝再考(一) 伝説の長夜を照らす』山中講一郎(平安出版)】

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