第三離一切苦一切病痛能解一切生死之縛の事

第三離一切苦一切病痛能解一切生死之縛の事

【だいさんりいっさいくいっさいびょうつうのうげいっさいしょうじしばくのこと】

『御義口伝下』(773頁)「薬王(菩薩本事)品六箇の大事」にある6つの大事のうちの3番目。離・(一切苦一切病痛)能解・(一切生死之縛)というふうにそれぞれ「離」は一切の苦・病に、「解」は生死にかかり、仏法の四苦と生死の本義を説き明かされ尽くした重文であり、大聖人の透徹した大生命哲学がちりばめられている。学会活動をしきった者の迎える死は仮令夭折であったとしても、その本地は既に三世の生命を覚知したものであり生死に迷う(死を恐れる)事なく従容として死を迎え入れ新たな生を得るので常楽我浄の大福徳の果報を得るとの御指導。

 

第三離一切苦一切病痛能解一切生死之縛の事

 御義口伝に云く法華の心は煩悩即菩提生死即涅槃なり離解の二字は此の説相に背くなり然るに離の字をば明とよむなり、本門寿量の慧眼開けて見れば本来※1本有の病痛苦悩なりと明らめたり仍つて自受用報身の智慧なり、解とは我等が生死は今始めたる生死に非ず本来本有の生死なり、※2始覚の思縛解くるなり云云、※3離解の二字は南無妙法蓮華経なり云云。


※1本有の実体とは、常楽我浄のこと。

※2生命の尊厳を述べられる。妙法の如説修行即ち学会活動を実践し、真の幸福のルートに乗らない限りは、究極的には「始覚」の生死観=今世論の範囲であり、多少の哲学があっても仏法の眼から見れば三世の因果を無視した観念論となってしまう。所詮は題目を唱え、折伏(悪との闘争)を行じる中にしか生死の迷いを断ち切る方途は見出せない。

※3同様に無始の昔より限りなく繰り返されてきた、我が生命に本来備わる生死を我が身そのまま達観する事を「離解」という。


生死一大事血脈抄