若き世代で新しい舞台開こう

若き世代で新しい舞台開こう

【わかきせだいであたらしいぶたいひらこう】

※当時の政治状況、日蓮正宗創価学会としての教義等、現在とは相違がありますが、ノーカットで聞き取り、可能な限り正確に文章化します。いずれ、何らかの形で音声をお聞かせ出来ればと思います。


以下本編

第31回本部総会会長講演

5月の花曇りの本日、ここにもったいなくも、総本山より日達上人睨下のご来臨を賜り、また多数の御僧侶、ならびに近しい来賓をお招きいたしまして、一騎当千の代表幹部の皆様方と共に、第31回の本部総会をば、楽しく、たくましく挙行できましたことを、わたくしは心から感謝申し上げるものであります。ありがとうございました。


本年は、昭和40年より47年の7年間にわたる第6の7つの鐘の、ちょうど4年目に入ったわけであります。従って本年を境として、いよいよ後半戦に入ったことになります。わたくしも更に勉強し、元気で広宣流布の新しい舞台を切り開いてまいりますので、ご支援をよろしくお願いいたします。このときにあたり、私は恩師戸田先生が、立宗700年に詠まれた「恐るるな 仏の力は偉大なり 若き血潮に たぎらせて立て」また、

「信ぜかし 偉大の力は 御仏(みほとけ)ぞ 祈りのかなわぬ事はなきなり」との歌を思い起こすのであります。


今まさに、日本の広宣流布の爛熟期を迎えんとし、私共は、更にこの恩師の歌の通り、青年の若若しい信心、情熱、英知をもって、新しい時代を、新しい勢力で、新しい建設者として、あの、思い上がりと、邪悪な暗い、厚い壁に向かって、断固兆戦してまいろうではありませんか。


まずはじめに、総本山の現況について申し上げます。正本堂建立は、既に昨年10月12日に発願式をとりおこない、更に本年2月16日には、墓地の御遷座法要を行って、現在、新墓地の造成工事を着々を進めております。これは8月一杯で完了し、9月中には納骨堂をはじめ全墓地の移転を終える見通しとなっています。この墓地移転工事と並行して、墓地のすぐ横を流れている※おとうがわの河川付け替え工事も進めてまいります。そして昨年の建立発願式から、1年経た本年の10月12日、整備の完全に終えた正本堂の敷地において、事実上の着工式をおこのうはこびになったことを、ここに皆さん方に、謹んでご報告申し上げます。

※資料によって、御塔川と判明


この正本堂建設は、ご承知のごとく、ジョイント・ベンチャー方式がとられますが、この工事を行う六つの建設会社には、本年6月末に、最終的な正本堂青写真を渡す予定になっております。それから4年、昭和47年10月の完成を目指して、世界平和の洋々たる黎明を告げる法華本門の大戒壇が、建設されていくわけであります。各人が、どうか、わが身の無量の福運と、わが身の使命を達成せしことを、最大の誇りとして、更に朗らかに、そして威風堂々と、人生を謳歌しながら、新社会建設に前進してまいろうではありませんか。


なおわたくしは、去る昭和405月3日本部総会で、総本山大石寺の土地が、過去5年間に12坪から、64万坪にふえた旨を、ご報告申し上げます。その後、3年を経て、昭和43年度現在では、実に106万6682坪になりましたことを、あわせてご報申し上げるものであります。また寺院の数は、本日までに306々寺に発展いたしましたことを、共にご報告もうしあげるものでございます。私たちは、満66歳の誕生日を迎えられ、ますますご健勝であられる66世日達上人睨下のもと、さらに総本山にご報恩のまことを尽くし、また寺院建立500々寺の目標実現に、全力をあげて歓喜のご奉公をいたすことをお誓い申し上げようではありませんか。


(注)これだけのご奉公に邁進する信者一人一人を、正宗の僧侶は、全力をあげて大事にしていただきたいことも付言しておきます。

(注)昭和43年当時、既に宗門に対しては最低限の釘を刺していた。


次に、すでに聖教新聞にて存知とは思いますが、創価大学の設立を、当初の計画より1年早めて、昭和444月2日の起工、そして昭和45年中に第一期の工事を完了し、昭和46年4月の開校の目標で進めてあいりたいと思いますが、本日、皆さん方の賛成があれば正式にこれを決定させていただきたいと思います。賛成の方は手を上げて下さい。(ハイ)

それではこれで満場一致で可決します。

創価高校は、去る4月8日に第1期生の入学式を行って、輝かしい栄光へのスタートを切りました。この新入生が3年間の高校生活を終えるのが、ちょうど昭和46年3月になります。もちろん、創価大学が出来たからといって、創価高校卒業生が全員、創価大学に進学するとは限りません。総合大学としての構想は、規模も大きいのですが、最初は文科系の学部を設置し、学生数も、少数精鋭でスタートし、そして遠い将来、徐徐に理工科、医学部等を増設し、拡大していきたいと思っております。したがって最初は理工学部、あるいは医学関係を目指す人は、創価大学へ入ることはできないわけであります。いうまでもなく、教育は、次代の日本を、世界の動向を決定していく、最も重要な事業であります。しかし、これまでのわが国においては、政治家指導者達は、あまりにもこの問題に対して無関心であった。のみならず、却って教育を政争の具にしようとして、種々の干渉が強化されていく前兆すら見受けられるのであります。このままでいけば、大学教育はますます権威を失墜し、混乱し、無力化していく以外にないとわたくしは心配しております。


ここに、理想的な教育のあり方を具現し、ひいては、教育界の姿勢を抜本的に正していく資格と使命をもったものこそ、初代牧口会長戸田会長よりの深い思索と実践の伝統に生きた我が創価学会であり、創価大学であると確信せざるをえないのであります。。特に大学は、一国の文化の母体であり、民衆の精神文化の結晶でなければなりません。現在、名実ともに世界的な大学といわれているイギリスオックスフォード大学ケンブリッジ大学フランスパリー大学アメリカハーバード大学などは、いずれもキリスト教神学の研究を中心にして創立されたものであります。


もとより、歴史の経過と共に学問の自由が確立され、自然科学人文科学社会科学等の各方面にわたる学問進歩の結果、現在は神学研究は影がうすらいでおります。だが、こうした宗教精神伝統は、今尚大学構内に教会堂が設けられている事実学生達が食事の時間には、全員で祈りをを捧げるという姿のなかに、厳然と残されているのであります。キリスト教に対する宗教批判の問題は別として、ヨーロッパ大学がいずれもそうした精神的支柱をもち、崇高な理想を追求する使命感に貫かれてきたことは事実であり、そうしたなんらかの精神的支柱があってこそ、真の大学といえると思うのであります。翻って、わが国の大学歴史をみるに、ご承知のごとく、代表的な大学東京大学でありますが、その全身は旧幕府時代の洋学の中心である開成所と医学所でありました。それが維新後、政府直轄の教育機関として復興され、明治10年には合併して、法学文学、医学、理学の4学部で東京大学となったわけであります。その目的は、徳川300年の鎖国による遅れを取り戻すために、西欧文明を急激に吸収し、国家のために働く人間をつくりだすことにあった。したがって、本来の大学の崇高な理想精神とは、はるかに遠いものであったといわざるをえないのであります。この東大創立の後進性の考え方はは、現在東大にも依然として根強く残っているという教育者者もおります。その後、出来た、他の大学にも、同じようなことが、広く、深く浸透していると、またいわれておるのであります。わたくしは、東大、行けなかったもので、(その悔しさから)東大を悪口言っているわけではありませんから、東大生の方、今日だけは勘弁して下さいよ。


現在の、多くの大学教育限界を、わたくしはここに見るのであります。もとより、大学社会貢献し、世界の進歩、発展に役立つ人材を育成することを目指すのは当然であります。大学といえども、社会国家現実から遊離したものであってはならないことは、いうまでもありません。だが、真に役立つ人材とは、単に知識や技術に優れた人間ではない。それだけであっては、国家社会の巨大なメカニズムの一部を構成する部品にすぎない。真に望まれる人材とは、高い理念をもった、優れた人格者であり、豊かな個性を持ち、技術、学術を使いこなしていける想像的な人間であると考えますが、いかがでありましょうか。ここに、日蓮大聖人の立正安国の精神、色心不二の大哲学を根底とした創価大学を、わたくし共の手で設立する事の意義が、如何に大きいかということを、知っていただきたいのであります。


ただ、いかなる大河といえども、源をさかのぼれば小さな流れであります。松下村塾も小さな私塾でありました。しかし、吉田松蔭の教育は、明治維新の動向を決定したのであります。創価大学も最初は少数精鋭で、間口もあまり広げず、着実に、堅実に、基礎を固め、10年、20年、50年先を目指して建設を進め、そして21世紀への学術、知性、理性の開発に貢献できる人材育成の学府をつくりあげることが、最も私は正しい行きかたであると思っております。本年の初めにあたって、総本山でも申し上げましたが、今年は、近代日本黎明を迎えた明治元年、すなわち西暦1868年より、丁度100年にあたっております。この100年間の歩みを、どう評価するかという問題については、さまざまな立場から、種々の論議があると思います。だが、わたくしがここで述べたいことは、この100年という一つの大きい節を迎えて、日本民族はこれから先、いかなる道を歩むべきか、したがって、現在のいわゆる曲がり角に立っているといわれる、現時点というものを、どう捉えるかということであります。


ご承知のように、今、明治100年の論議を表に押し出して、復古調的な、反動的な機運を盛り上げ、右傾化の道をたどろうとしているのが、保守政党であります。それに対し、この呼びかけを、打ち破る論拠が、革新政党にはない。


何故ならば、一つの理由として、社会党にせよ、共産党にせよ、最高幹部は、いずれも明治びとによって、明治人によって、しめられているからであります。歴史の曲がり角にさしかかっているといわれる現代の状況について、私なりの考えの一端を述べるならば、その変貌しつつある実体とは、単に政治面だけでもなければ、単に、教育面だけでもない。日本の文化それ自体であり、その文化の根底をなす思想哲学であります。すなわち、あらゆる文化の担い手が、明治思想によって生きてきた古き人々より、戦後の新しい民主主義によって成長した、新しき人々に移りつつあることを意味していると思うのであります。わたくしは、この実態を世代の交代であると申し上げたわけであります。学会の主流は、昭和生れの青年であります。公明党議員も、大部分が昭和生れ、または大正生れの人々であります。更に学会には、学生部、高等部、中東部と続いております。この若さ、生き生きとした生命力こそ、真の革新であり、未来日本希望あふれるリーダーシップの象徴であると共に、新しき文化のの興隆の、力であるとわたくしは確信したいのであります。およそ文化と人間生命の開花であり、祭典であり、人間の心の中に高まる英知、情熱感動を具現した、価値創造の活動其れ自体であります。かつまた、それによるあらゆる資産意味するものであります。


したがって、文化の本質はあ、人間生命、精神の開発にあることは、当然なことになるのであります。文化を英語カルチャーというのも、耕すという意味であり、人間の心を耕す、その耕された、そしてまた成長した人間精神が、今度は外に向かって働きかけ、未開発の分野を耕して価値を生み出していく。そこに、文化の伝統と意義があることを象徴しているのであります。そして、この人間のの心を耕し、開発する思想哲学を、宗教というのであります。


トインビーが、マルキシズム宗教である、と断定しているのも、善悪は別として、マルキシズム宗教と同じく、マルキシズムなりに人間精神を変革し、作り上げて作用をもっていることをさして、このように言ったと思うのであります。今、明治以降、大正昭和戦前までの日本を考えてみますと、指導者は、民衆の心を国家主義の鋤で耕し、神道の種を植え付けていったということができるのであります。だが、それらの理念は独善であり、利己主義であり、世界に通ずる理念ではなかった故に、遂に敗戦という破局を招いたのであります。戦後日本民主主義国家として、いくら新しく生まれ変わったと叫んでも、その指導的任務につき、リーダーとなったのは、みな明治人であった。これでは、中身はそのままで、外側のレッテルだけ変えたのと同じであったといわれてもやむを得ない。今日は大変に明治の方に申し訳ないけれども、1日だけ勘弁して下さい。


新しき建物は、新しき材料で作らなければならない。わたくしは、新しき日本の文化は、新しき理念をもった、新しい世代が、一切の中枢となって創造し、改革し、担っていく以外に断じてないことを主張するものであります。


しからば、この新しき理念、哲学思想とはなにか、わたくしはこれを結論していうならば、日蓮大聖人の色心不二の大生命哲学であり、独一本門の大仏法哲理なりと主張したいのであります。御書に曰く、法華経は種の如く仏は植えての如く衆生は田の如くなりと。


人間生命の限りなく豊かな活力を発揮し、未曾有の大文化の花を咲かせていく根源は、妙法の種を、民衆の生命に植え、仏界、仏の生命という、本然の力を伸ばしていく以外にない。これは、抽象論でもなく、現実に1000万の人々が如実に証明しておるではありませんか。


よって、偉大なる文化は、偉大なる宗教の土壌があって、初めて芽生え、生育し、豊かに実を結ぶものなのであります。過去にも、釈迦の仏法を根底として、インド中国日本、または東南アジア諸国に、幾多の文化が栄えてまいりました。特に、日本文化の最初の黄金時代を現出した、天平、白鳳、飛鳥文化は、大陸より移入された仏教が、その源泉であったことは、有名な事実であります。くだって、貴族文化の極致を示した平安朝文化もまた、像法の法華経迹門の広宣流布を土壌として開花したものであります。こんにち、世界の大半を風靡している西洋文化も、キリスト教を根底にした文化であり、その他、アジアアフリカにあたがって、イスラム文化圏があり、東南アジアには小乗仏教による文化が根強く残っております。しかし、現在において、キリスト教イスラム教小乗仏教等は、いずれも、もはや青年の心を開発するなにものをももたぬことは、明白になってしまいました。ただ、大乗仏法にのみ心をひかれて、これを求める機運が、欧米青少年の間に高まっていることは、三大秘法広宣流布の時来る感を深くするものであります。


現代は大衆の時代であります。過去小乗迹門の文化は、王侯貴族や僧侶の文化であった。キリスト教を根底とする西洋文化も、所詮はブルジョワ文化に他ならない。マルキシズムは、これをプロレタリアートの手に移そうと意図したが、結果は、党及び官僚の、新たなる特権階級を助長したにすぎないようである。所詮、全民衆の基盤に立った、永遠に崩れざる大文化は、生命を奥底より開発する日蓮大聖人の三大秘法の仏法を根底として、初めて樹立さえるとわたくしは思うのであります。現在ベトナム戦争は、わずかながら和平の気配を見せ初めておりますが、本当の意味での終結にはmまだはるかに遠い感があります。いわんや、戦場はベトナムだけではない。中近東にも、ベルリンにも、朝鮮にも、いつ火をふくかわからない戦争の危機がひそんでおります。ある軍事評論家は、仮にベトナム戦争が今すぐ終ったとしても、おそらく今度は朝鮮で再び戦争が始まるだろうともいっております。


世界は、あまりにも不安定であり、破滅的危険が充満ンしております。こうして、通常兵器による戦争、抗争が行われている最中にも、頭上には恐るべき核兵器が、ダモクレスの剣のようにじっと待機し、全人類の生命を一瞬に奪い去ろうとしているのであります。この点については、小説人間革命』のなかで縷縷書いておきましたが、人類はもはや、戦争と平和の問題について考える場合、何よりもこの核兵器存在を無視することふぁ絶対にできないのであります。したがって私は、平和への提言の第一として、米、英、ソ、仏、中の核保有5カ国は、早急に一堂に会して、核兵器の製造、実験、使用を禁ずること、ならびに現在保持している核兵器を廃棄することについて、真剣に話し合いwpすべきである。そして、この会談実現の為に、最初の被爆国、我が日本は、平和を願う全民衆の総意を結集し、リーダーシップをとっていくべきであると訴えたいのであります。


これまでも、米英ソの、いわゆる核兵器先進国の間では、1963年に部分的核実験停止条約という、核に関する条約が取り決められております。だが、その条約の狙いは、核を、これら先進国の独占物としようとしてものでありました。また、現在国連舞台にして、米ソのリードで、核拡散防止条約という、一部お核兵器保有国に一方的に有利な不平等条約をめぐり、討議が行われております。


しかし、こんな中途半端なものではなく、今度は、全保有国が集まり、更に、そこに世界の原子物理学の権威者等も交えて、平和のために話し合ってもらいたい。わたくしは、これこそどんなに優れた兵器を開発し、装備し、あるいは集団安全保障体制を作るよりも、はるかに抜本的で間違いのない、自国の安全保障に通ずる有意義な仕事であるといいたいのでありますけれども、皆さんいかがでしょうか。


現在でも、戦争については幾つかの取り決めがなされております。例えば、毒ガスや細菌等を使用してはならないとか、捕虜虐待してはならない等は、国際ルールとなっています。これと同じように、なぜ核兵器禁止の申し合せをしないのか、こういいたいのであります。


戦争ほど悲惨なものはないし、しかもたとえ勝ったとしても、決して得をすることはないのであります。このことは、現在ヨーロッパの国々を見れば明瞭であります。欧州において、今、最も繁栄しているのは、第二時大戦で敗れたドイツであるといわれております。最も惨めなのは、戦勝国イギリスであります。また、戦争に直接関係しなかったスイスデンマークスウェーデン、なお一時、ナチに占領されたとはいえ、ノルウェーなどは、ひたすら国内の充実に力を注いで、恵まれた福祉国家をつくっております。イギリスにせよ、フランスにせよ、、第二時大戦では勝ったものの、その後もエジプトや、アルジェリアインドシナなどで、植民地維持のため民族主義弾圧の戦争を行い、莫大な国費を注ぎ込まなければならなかった。それが、大きい疲弊の原因であるともいわれております。


アメリカもまた、ベトナム戦争に膨大な金を注ぎ込み、国際収支の悪化から、ドルの権威の著しい失墜を招いていることは、周知の通りであります。こうした戦争経済性の問題はともかくとしても、我々仏法の立場から、生命の尊厳を守るために、断固、戦争を排除し、真実恒久平和を樹立することを強く訴えきっていこうではありませんか。


ここで、わたくしは生命の尊厳の問題について、その理念を明らかにしておきたい。およそこの世において、生命ほど尊いものはないし、いかなる財宝といえども生命なくしてはなんの価値もない。しかるにお、人類数千年の歴史を顧みるときに、まさに弱肉強食の(注、恐らくこの単語)闘諍(とうじょう)の反復

であり、平和を願い、生命の尊厳を叫ぶ声は、ことごとく無残にもふみにじられてきたのであります。これでは人類の姿は、こんにちなお畜生界の境涯から一歩も出ないといわざるをえないのであります。たしかに人間は緻密で、創造性にとんだ素晴らしい頭脳をもっている。また、幾多の発明、発見をもって、生活のの向上をもたらしてきたことも事実でありましょう。


だが、その反面、優れた頭脳が残虐な殺戮手段を生み出し、遂には人類30数億をいっしゅんにして抹殺する核兵器をつくりだすにいたったのであります。これこそ、土台となる人間精神面が全く貧弱であり、未開発のまま、その上に巨大な建造物を次々と継ぎ足して建てていった悲劇であるといわざるをえなのであります。2度にわたる世界大戦で、ほとんど全世界に及んだ殺戮破壊悪夢は、このゆがんだ文明の一つの現れであったと思います。かくして現代は、かつてないほど広く真摯に、人間生命の尊厳が叫ばれるべき時代となったのであります。もとより、人間性の尊重は、古今、幾多の賢人、聖人によってうたわれてはきました。しかし、それらはごく少数の人々にしか浸透せず、時代を動かす力ある思潮とはなりえなかった。信仰上の対立、民族間の反目、あるいは階級階級憎悪葛藤の嵐の前には、たちまちに吹き飛ばされてしまったのであります。


しかるに、現在は、もはや一部の人々の主張にとどまらず、多くの民衆に悲惨をもたらした大戦という現実を裏付けとした心のそこからの人間生命尊厳の叫びが、全世界のあらゆる階層よりわきおこり、時代を動かす力をもちはじめたのであります。わたくしは人類史の流れから見て、現代の時代的本質は、無知と貪欲に支配された悲惨と残虐の暗黒の世紀から、人間の英知と善意による平和と尊厳の栄光の世紀への偉大なる分岐点であるとみるのであります。否、核兵器の出現した今日、なんとしても我々の力で、仏法の力で人類の理性を呼び起こし、将来の人類幸福平和と安泰を築き、後世の人類から心より感謝されていく先駆の大法戦を遂行しておきたいのであります。そして、生命の尊厳の本源より自覚し、英知を磨いていく道は、おはや過去の観念論やまた観念的宗教や、偏狭な唯物哲学には絶対ありえないと思います。むしろ、これらこそ現代世界の対立と憎悪を招き、ますます危機を深めている根本原因になっておるではありませんか。


しからば、分岐点に立った現代をリードし、生命の尊厳の新しい世紀を築く思想哲学宗教は現代の世界のいずこにもないのかといえば、それは断じて否であります。わたくしはその実体がまさしく東洋、なかんずく日本にあることを全世界の民衆に一生涯叫び続けていきたいのであります。そして、それこそ大乗仏法の真髄たる日蓮大聖人の色心不二の大哲学、大宗教であることは論を待たない。今日にいたるまで日本人は、西洋文明を摂取することにのみ心を奪われてきた。そして、自分自身の内に秘められた偉大な珠玉に対しては振り向こうともしなかった。むしろ欧米の心ある人々が、漠然としてではありますが、この珠玉の存在に密かに心を寄せておったのであります。かのドイツの医学者ハンス ムフは、東洋仏法の中に、歴史を超越した不滅の哲学見出し、それを東洋人が見過ごしてきたことを指摘して、このように言っております。すなわち、大きなものは、それが圧倒的であるがために素通りしたというにすぎない。「大きなものは、それが圧倒的であるがために素通りしたというにすぎない。」と、まさにその通りであります。


名利をむさぼり葛藤に明け暮れた盲目の心にとっては、仏法の真髄は余りにも偉大であるがゆえに、この英知の光明を見ることも、とらえることも出来なかったでありましょう。だが21世紀のこんにち、人々の心の扉は次第に開かれはじめております。また、絶対に開かざるをえなくなってきております。そして、これまでじっと静かに時を待っていた生命の尊厳を説く大乗仏法の真髄は今、時を得て春爛漫の開花を見ようとしておるのであります。わたくしは、今こそ、まさに生命の世紀の夜明けと確信するものであります。


御書にいわく、「いのちと申すものは一切の財の中に第一の財なり、遍満三千世界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も、いのちには、かへぬことに候なり」

また、可延定業書には「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」と申されております。三千界、三千大千世界とは、古代インド宇宙観の一つであり、現代の天文学の知識をもって考えれば、、銀河系宇宙に相当すると考えられるのであります。地球一個に含まれているあらゆる宝、富でさえ、測り知れないほどである。いわんや三千大千世界全体の宝、富といえば、その何100億、何1000億倍でありましょう。だが、それが、1個の人間生命にはかえられないとの御文なのであります。これほでの人間生命の尊厳を説ききった哲学宗教思想が、他のどこにありましょうか。この大生命哲学に気付かなかったが故に、人間は、過去数世紀にもわたって、生命軽視の風潮に生き、悲惨な流転を続けてきたのであります。今こそ人類は、従来の枝葉末節にとらわれた、本末転倒の考え方をかなぐり捨て、仏法を根幹として、真実の生命の尊厳観に立脚すべき跳躍の時を迎えたと私は叫びたいのであります。それこそ、過去のいかなる革命よりも、数千倍にも優る大変革であると思いますけれどもいかがでしょうか。


よって、妙法蓮華経の前には、身分的、階級的な、貴賎上下の差別も、人種的な差別も全くなく、一人一人が、かけがえのない尊い生命の当体であると申されておるのであります。この偉大なる仏法哲理と、その具現の方途が、実に700年前の日本に、日蓮大聖人の手によって、厳然を樹立されておったのであります。不思議にも大聖人御出現の13世紀といえば、西洋においても神の時代より人間の時代への変革が徐徐に始まった時代であります。十字軍の遠征、モンゴルの侵入等によって、外部の世界に眼を開かれ、それは、やがてルネサンスヒューマニズム胎動(注、大道か?)となったのであります。


今又、化儀の広宣流布の機熟し、日蓮大聖人の大仏法が日本にひろまり、全世界に次第に潮の如く流れ出しているとき、全地球上に、生命の尊厳の、新しきヒューマニズムをつくる声がわきおこってきていることも、不思議な時の一致といえましょう。先ほども、平和の問題で述べましたように、生命の尊厳を脅かす魔物の働きが、人類絶滅原水爆戦争として、私共の頭上に重々しくのしかかっております。だが、その本質は、人々の心の内部にひそんでいることも明らかであります。故に、この魔の生命を断ち切るものは、妙法の利剣以外には絶対にありえない。人間の善意と英知の勝利をもたらすものは、仏法を信ずる私共の努力以外は断じてないとわたくしは言っておきたいのであります。


今の世界は、右に左に激しく動揺を繰り返しながら、古き権威は滅び、、新しき時代を求めて急速に変化を示しております。こんにち、自由主義社会においてみ、共産主義社会においても、その内部に大きな変化が起こりつつあることは、誰の目にも明らかであります。自由主義世界におけるアメリカの威信は、ベトナム戦争、ドルの不信(注、不振か?)等によって急速に低下し、黒人暴動によって内部にはらんだ深刻な矛盾をさらけだしております。共産主義社会においても、かつてのソ連を中心とし、一枚岩を誇っていた国際共産主義は完全に挫折し、中ソ対立は更に激化し、あるいは東欧にも人間性を主張する自由化の波が高まってきております。まさに、時代は混沌としてきました。しかし、何らの理念、思想の基準のない眼からすれば、混沌としているように見えましょうが、この激動の世界も、人間性の哲理に根ざして、その底流を見抜く時、新しい時代への確固たる動きを、はっきり知ることができるのであります。わたくしは、これこそ、新しいヒューマニズムに根ざした中道主義への流れであり、潮が満ちてくるがごとく、第三勢力を待望する時代の推移であり、趨勢であると信じたいのであります。


わたくしは以前から、日本は第三勢力として立ち上がるべきであることを主張してまいりました。一昨年の青年部総会においては、全世界の期待する恒久平和実現の第三勢力となることこそ、我が日本の使命であると訴えてきました。また昨年の席上においても、これからの7年間は激動の時代であり、各国の指導者の交代も必定であり、勢力分布も大きく変動するだろう。だが、これらの激動、変動も、その底流は、ことごとく日本の王仏冥合、世界の広宣流布へむかっての激動であり、変動であることを確信したいと申し上げました。しかして、徐々にその通りの時代の展開が、現実に進行しているようにわたくしは思いますけれども、いかがでしょうか。これひとえに、日蓮大聖人の御予言の通りであり、時のしからしむる所であるといいたいのであります。


かかる観点から、このたびの参議院選挙を意義付けるならば、この戦いこそ、日本に、第三勢力の台頭を決定付ける決戦であり、中道主義を磐石ならしめる、試練の戦でもあります。


昨年の総会の時話したましたように、党執行部では、(全国区候補者の推薦は)11人とか13人ぐらいは出せるかもしれないという考え方があった。しかし、わたくしは、それを抑えて、9人推薦に絞ったわけであります。情勢がいかに厳しいかは、今日になっていよいよ明瞭であります。それゆえにこそわたくしは、この全国区9人、そして地方区5人は、なんとしても勝ってもらいたいし、また、勝たせたい気持ちで一杯であります。そしてまた、そのとき同時に、全国区の得票数を昭和40年の509万票から、3割増しの最低6,50万票前後の獲得を目指して進んでいきたいむねをお話しておきました。その目標実現の為に、更に力強い前進をしてまいりたいと思います。いろいろとご苦労があると思いますが、体を大切に、事故なく、また我が同志のため、法の為、社会の為に勇んで進んで戦って下さるよう、お願い申し上げるものであります。


話は変わりますが、エンタープライズ佐世保寄港問題、倉石発言を頂点とする防衛論議等を通じて、公明党左傾化しているというような観測が、一般になされていますが、それについて、もう一度確認をしておきたい。最近政府自民党が急速に右傾化を強め、再軍備そして戦争への道を進んでいることは周知の通りであります。この露骨な右傾化をくいとめるためには、野党が力をあわせて戦っていく以外にない。公明党はこの決意に立って、野党の結束の要として戦ってきたのであって、公明党の基本路線としての中道主義の本質は、いささかも変わったわけではないのであります。中道主義を端的にいうならば、それは人間主義ということであります。もともと人間は1個の調和の取れた円満なる生命の当体です。すなわち、人間生命それ自体が中道であるといえるのであります。例えば、私共は暑い時には上着を脱ぐ。寒くなれば着る。だが、人間の体自体は変わらない。人間生命それ自体が中道であるからであります。


ある学者資本主義だの、共産主義だのというのは、上着を着るか着ないかというようなものだといっておりmした。寒い冬空のもとでは、上着が必要な場合もある。これを共産主義にたとえている。だが、暑い夏や暖かい部屋の中では、かえって暑苦しくて、脱ぐほうが快適である。これを資本主義にたとえている。しかるに、何が難でも資本主義でなければならないとか、逆に共産主義でなければならない等といっているのは、そうした気候、環境の条件を無視して、根本的には人間性を無視して、暑い夏に上着を着せたり、寒い冬に裸で過させたりするのと同じという意味だと思います。資本主義といい、共産主義といっても、究極は民衆の幸福を如何にして実現するか、どうすれば社会の繁栄をもたらすことができるかということが目的である。社会制度は、所詮、その目的を達成するための手段に他ならない。


我々が中道主義を提唱し、既成勢力に挑戦して、漸次(注、時か?)、革命を進めておりますが、これは決して資本主義共産主義と同次元のものではない。それらの対立を止揚するものであり、政治経済社会、文明の根底に、人間性の尊重、生命意尊厳の確固たる基盤を築いていくためのものであります。既成の勢力は、この根底を忘れ、、資本主義共産主義、あるいは科学文明という、本来は手段に過ぎないものを、究極の目的であるかのごとく錯覚してしまっているのであります。この錯覚によって、人類は知らぬ間に人間生命の軽視、民衆不在の政治人類滅亡の科学という、悲しむべき事態に陥ってしまったのであります。日蓮大聖人の御書には、中道の意義を、「有無に非ずして而も有無に偏して」と説かれております。この有無、あるかないかという言葉を左右という言葉に置き換えて読めば、左右にあらずして、しかも左右に偏してということになります。


この一方にあらずして、しかもどちらかに偏していくという中道意味は、本質においては、どちらにも片寄っていないのであります。具体的には、時に応じ、機い応じて、自在につかいこなしていくことになるのであります。結局、資本主義のために人間があるのでもなければ、共産主義のために人間が使われるものでもない。逆に資本主義共産主義も、人間のため、民衆の幸福のために使われていくということが、最も正しい行き方であると思うのであります。このほか、科学芸術経済法律等も、全て人間生命から出発して、同じく人間生命に帰着していかねばなりません。それが中道主義であり、この中道主義こそ最も根源に立ち戻った、人類不変の願望ではないでしょうか。


したがって、中道主義の政治を、リンカーン言葉をいいかえて一言にしていうならば、「人間の、人間による、人間のための政治」であり、更に、こんにちの日本の政治に約していうならば、国民不在の政治国民の手に取り戻す政治であり、真実民主主義平和を守り抜く政治なのであります。現在、世界において、デンマークスウェーデンが最も社会福祉制度が完備した国とされておりますが、その底に流れる思想は、キリスト教的博愛主義であります。私共は、更に根底的な仏法の生命の尊厳の哲学バックボーンとして、物質的にも、精神的にも、最高に充実した、全世界の規範となる大衆福祉の新社会を、まず日本の国に建設しようではありませんか。


この理念、思想の裏付けを究明しようとせずして、ただ平面的に眺め、ちょっとした現象のみをとらえて、右によったとか、左に傾いたとか批判しているのは、あまりにも浅薄であり、無認識な評価といわざるを得ないのであります。戦前昭和の初頭に、左翼勢力が非常に勃興したことがあります。しかし、それがかえって国家権力と結んだ極右勢力に口実を与え、大規模なる左翼弾圧が行われて、いわゆる極右軍国主義の暴走を招き、日本は亡国の悲運を味わっております。こうした姿は、日本ばかりではなく第1次世界大戦終了時に、ドイツあの有名なキール軍港の水兵の反乱に始まり、ベルリンにも革命が勃発し、あわや社会主義革命が成就するかに見えた。これは極右から極左への動きであった。それが再びナチスの出現によって、極右へと向かい、結局、亡国への道を歩んでしまったのであります。


同じような動きは、イタリアにもみられた。1920年労働者の大規模なストライキが行われた。もしも、当時のイタリアに、ロシアにおけるボルシェビキのような、革命的な政党があったならば、そしてまた、レーニンのような指導者がいたならば、社会主義革命は成就したであろうといわれている。だが、わずかの間に、ムッソリーニの率いるファシズムが天下をとり、同じく亡国へと向かったのであります。このように、極右から極左へ、極左から極右へ揺り動いていく不安定な政情が、どれほど危険な要素を含んでいるか、歴史は、まざまざと、私共に明示してくれているのであります。これに対し、イギリスアメリカでは、チャーチルあるいはルーズベルトの指揮のもと、比較的、穏健な中道的な基盤ができあがっており、そのために、安定した力を発揮し、遂にファシズムの毒牙を打ち砕くことができたと考えられるのであります。


これを歴史的教訓として、戦後日本を見る時、同じく左翼の勃興があり、それに対する右翼勢力の台頭がおきております。あたかも時計の振り子のように揺れ動いて遂に破局に陥った戦前のあの苦い経験を、再び繰り返してはならない。そのためには、我々は民衆の総意、すなわちナショナルコンセンサスに立脚した、しかも左右の対立を止揚する中道主義の政治を、日本の将来のために、厳然と確立していかなければならないと思うのであります。時代は、まさに三国志の様相を呈してまいりました。保守政党曹操率いる魏とするならば、革新政党孫権の呉であり、公明党王道を樹立せんとして立った劉備玄徳の蜀といえましょう。今、右傾化を強めている政府自民党に対し、日本民族を誤った方向へ暴走させないためにも、社共と連係していくことは大局からみてやむをえない。あたかも、蜀が魏の横暴に対抗するために、呉と組んだようなものであります。だが、劉備玄徳、諸葛孔明らの心は、どこまでも正道を確信した王道を樹立にあったごとく、我が公明党は、一時的には左よりになったように見えても、根底的にはあくまでも中道の大道を歩んでいるのであります。そうして、歴史の進展のなかにおいて、中道主義の公明党こそ、真に全国民に安泰を導き、また、全国を正しくリードする政党であることが、全民衆より、一日も早く理解されていかんことを、わたくしは心より祈るものであります。


減劫御書に曰く、「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」云々と。こんにち、大悪とはまさしく全人類を滅亡においやる核兵器の出現であります。これこそ、大悪のなかの大悪であります。「閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」とは、日蓮大聖人の世界広布への偉大な予言であり、絶対の確信であります。大聖人ご在世当時は、交通も不便であり、また物情騒然たる時代であり、人々の心も、虎狼の如き、殺伐たる状態であった。日本一国のことを考える人はおろか、少しでも人のために尽くすような人、そしてまた指導者も皆無であった。この時代に、日本の安泰のみならず、かくも雄大なスケールで、全世界の安泰と平和を訴え、予言された大聖人の御本仏の大境涯は、ただただ驚嘆する以外にないのであります。しかも、その世界広宣流布の偉大な予言は、今や時代の鏡となり、うしおとなって、時と共に燦然たる光彩を放っているではありませんか。


総本山第26世、中興の祖、日寛上人は、立正安国論をはじめとする3度の国諌について、大聖人の御予言が、ことごとく的中したことに対し、暫時筆をおいて紅涙白紙を点ずと感涙されております。今、妙法流布に生きるわたくし共の胸にも、日蓮大聖人の大慈悲、大確信の念念がひしひしと伝わってくる。しかもこの偉大な予言を実証するわたくし共使命と福運を思う時に、紅涙したたる思いなのであります。


今、新世紀の水門は、音を立てて開かれつつあります。その主体、そしてその本流こそわたくし共、学会員宿命であり、今世の唯一の使命なりと決意していただきたい。すなわちわたくし共の強気一念が、個人をを変え、社会を変え、更に世界までも見事に変えていくことを強く自覚して、再び苦難の道を、先駆の道を、雄雄しく、わたくしと共に、前進していただきたいことをお願いし、最後に皆様方のご健康とご一家のご繁栄を心よりお祈り申し上げます。長時間、有難うございました。

以上、約1時間弱