衆生身心御書

衆生身心御書

【しゅじょうしんしんごしょ】

別名「随自意御書」。

  • 御書全集1595頁10行目~同頁終わり(第177刷まで)
  • 御書全集1595頁15行目~1596頁1行目(第178刷~)
  • 編年体御書1473頁10行目~14行目

《参考:聖教新聞

1994年平成6)11/21(月)「女子女子部12月度仏教大学校研鑽のために」


《背景と大意》

本抄は前後が欠損しているため、あて名、御執筆の年月日ともに不明です。

内容から推察して、身延の大聖人のもとへ、筍(たけのこ)を御供養した信徒にしたためられた御書であると思われます。

本抄では、最初に、爾前経が衆生の心に合わせて説いた「随他意」の教えであるのに対して、法華経は仏の心をそのままに説いた「随自意」の教えであることを示されています。

この随自意の教えである法華経を信授してこそ、衆生も仏になれることを麻の中の蓬(よもぎ)等の譬(たと)えを通して御教授されています。このことから、別名を随自意御書ともいいます。

続いて三つの種類の使いの譬えを通し、諸宗の開祖等は仏の説に自分の言葉を交えて説く最も悪い使いであることを示され、なかでも真言宗の邪義を強く破折されています。

そして、末法において、仏の教えの通りに法華経を広める大聖人こそ、真実法華経の行者であり、その大聖人に供養する人の功徳は計り知れないほど大きいと御教示されています。


《通解》

稗(ひえ)の飯を辟支仏(ひゃくしぶつ)に供養した人は宝明如来(ほうみょうにょらい)となり、土の餅を仏に供養した人は閻浮提の王となったのです。たとえ供養の功徳を積んでも、それが真実でない人への供養であれば、大悪とはなっても善とはなりません。たとえ心が愚かで、わずかなものの供養であったとしても、真実の人に供養すれば功徳は大きいのです。まして厚い志をもって、真実の法に供養する人々の功徳は、どれほど大きいか計り知れません。

 その上、今の世は乱れていて民の生活も楽ではありません。また時間的に余裕のない時であるのに、日蓮の身を案じて身延の山中の法華経へ、孟宗の筍を送られたのは、福田にすばらしい善根の種を蒔(ま)かれたのでしょうか。厚い志に涙も止まらない程です。


池田名誉会長のスピーチから》

日蓮大聖人は、門下の大田乗明への御手紙で、「金珠女(こんじゅにょ)」の説話を引いておられる。

「昔金珠女は金銭一文を木像の薄と為し九十一刧金色の身と為りき」(御書1012頁)

──昔、金珠女は、仏の木像を飾る金箔を金銭一文で供養し、九十一刧の間、金色の身となった──。

金色の身」とは、光り輝く最高の大福徳の身ということであろう。(中略)くめどもつきぬ福運、体からあふれ、にじみ出てくる歓喜の光。こうした「金色の身」が生々世々に続いたというのである。わずか「金銭一文」でも、時にかなった、真心からの供養であれば、計り知れない功徳を得る。

「心」の不思議な作用である。

更に大聖人は、「仏」を供養した金珠女の功徳以上に、「仏の師」である「経(法華経)」に供養する大田乗明夫妻の功徳は大きい。必ず一生のうちに成仏されますよ、と断言しておられる。大聖人の御言葉には、絶対に、うそはない。必ず、その通りになっていく。私は大確信をもっている。

今、私どもは、最高の供養である「妙法流布」をなしている。「広宣流布」の聖業をなしている。その人は、「金珠女」すなわち「黄金の宝珠の女性」以上の大福徳を得る。必ず「金色の身」となる。これが、御本仏の御約束であられる。

(1993-04-20 第65回本部幹部会から=「創価のルネサンス」第51集に所収)


《以上、「御書研鑚のために」より》