観心本尊抄

観心本尊抄

【かんじんのほんぞんしょう】


本朝沙門日蓮

文永10年 52歳御作 与最蓮房日浄


本抄の題号について日寛上人は、「時(法を説く時)・応(仏の出現・教化)・機(衆生の機根)・法(仏の教え)」の四義に照らし、「如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄」と読むよう教えられています。《「御書研鑚のために」より》


「五大部」の一つ。正式名称は『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(如来滅後五の五百歳に(※)始む観心の本尊抄)。文永10年4月25日佐渡一ノ谷(さわ)にて富木常忍(胤継=たねつぐ)に与えられた。「法本尊開顕の書」。


  • 「法本尊開顕」

開目抄』で末法下種の人本尊を鮮明にされた大聖人にとって、次になすべきことは、末法一切衆生信仰の依処として法本尊を説き明かし、実体化することであった。

まず「開顕」とは、末法に顕われるべき本尊の正体を明かすという事であり、大聖人の滅後の衆生が大聖人のお姿やお声に触れられる機会を持たなくても、その御内証(仏の生命)を具体的な法体(本尊)として対境とする事で、現実に大聖人にまみえることのない衆生にも成仏決定の機会を与える事である。

これは、一つには竜の口以降の御本仏としての代表的な御振舞であり、大慈大悲と拝する事が出来る。

二つには、仏の生命を顕現された本仏とはいえ、御振舞は九界において遊ばされる以上、我々と同様人間としての生命はやがて消滅するという、いわば「成住壊空」の原理を示され、これも一切衆生に平等に利益させ、差別を設けられないという大慈大悲の御振舞と拝する事が出来る。

開目抄」で明かされた「人本尊」だけであれば、在世の人々は、その仏の生命に触れられて、これを縁として成仏が出来るが、人としての大聖人がおられない滅後の衆生は、直接御仏の生命に触れられないことになるので、大聖人の仏としての生命を、そのまま御本尊として写し、「人法一箇」の当体として建立あそばされたのである。妙楽の釈には「仮令(たとい)発心真実ならざれども正境に縁すれば功徳猶多し」とあり、対境としての正しい本尊を拝する重要性を指摘している。

従って仏の死滅を一般の死亡と混同してはならず、「不滅の滅」と観じ、日々の御本尊への信の中に大聖人からの御説法を受けていると信解する姿勢が大事である。

また題号について、冒頭の「観心の本尊」の「の」の字について、「我が形見と思え」と弟子に講義されている。実際、多数の他門流は外して(※ 五百歳始(し)観心本尊抄と直読み)釈したり別の読み方をするのでそれらは甚だしき誤読であり、大謗法といわざるをえない。

「観心」ということについては、『寺泊御書』(953頁)に代表されるように、当時の大聖人に対する主だった4つの批判のうち、特に「唯教門計り」で「観心」の法門について説いていないではないかとの批判に対する回答ではないかとも考えられる(文証がないのであくまで筆者の推察の域を出ない)が、具体的に末法における「観心」修行とは何かを明かされることによって、即ち信仰の行、実践のあり方を完璧にされた。

開目抄」を当時の思想宗教宗教批判の原理から文底下種仏法こそ真実の法であることをあきらかにした「教の重」といわれるのに対して、当抄は観心修行に重点をおいた点から「行の重」といわれる所以がここにある。


佐渡御書」の追伸部分に有名な紙が不如意である旨の文があるが、佐渡の筆舌に絶する(当時の地球は寒冷期にあったことも考慮にいれたい)環境は、凡夫には容易には想像出来ない事ではあるが、畏れ多くも御真筆(千葉中山法華寺)を拝せば血のにじむ御辛労が伺え、前述のような紙の究めて(ただでさえ当時、紙は貴重品であった。現在でいえば、死刑囚が獄舎から超のつく高級嗜好品を所望するようなものではなかったか)乏しい中で書かれた当抄は、全編で17紙からなり、紙も統一されたものではなく、前半は和紙、後半は雁皮紙が使われ、しかも表裏にわたって認められているのである。


  • 対告衆

開目抄」が四条金吾殿にあてられたのはその経緯から、必然であったと拝されるが、本抄が富木胤継に与えられた理由は、どちらかというと本抄の含理が哲学省察が強く、また甚深の法門が書かれていることを考慮すれば、法理面に精通していた富木胤継が対告衆として最も適任であったためと考えられる。実際、富木胤継には当抄以外にも『法華取要抄』『四信五品抄』の十大部、『立正安国論』の写し等、計四十余編の御書が与えられている。中山に、富木、曽谷、太田の各氏に与えられた御書が多数現存するのもこのためである。また当時の天変地夭、戦乱の社会情勢で、ましてや本抄のような重書を安全に、また後世に伝持するためには有力な武士であり、社会的にも安定していた富木氏に託された事は当然と思われる。

加えて注意すべき事は、御書中に『立正安国論』は20数ヶ所、『開目抄』でも4ヶ所に出ているのに、本抄は『観心本尊得意抄』(972頁)のみであり、本抄末尾の厳戒に仰せの如く、如何に甚深の法門であったか伺われる。恐らくこの富木胤継以外数人の在家を除いては本抄の見聞は不可能であったろうし、出家分においても、常随給仕されきった日興上人や助手以外は、相伝は無かったと考えられる。現存写本も、日興上人と日高のものしかない。日高に関しては、主旨から外れるのでここでは省略する。


1.『開目抄』は主に権実相対をとって、末法下種三徳を明かされるが、本抄は、冒頭から天台三大部の最高峰である、『摩訶止観』巻五の極説である「一念三千」論をあげられ、天台教学の立場から、事の一念三千たる大御本尊の相貌を明かされた。前項で述べた通り、冒頭の時点ですでに天台教学の真髄を究めた者でなければ理解しがたく、安易な姿勢で臨むと誤解に陥る恐れがある事。

2.『開目抄』に意図された人本尊の開顕は、すでに御振る舞いの上で実証ずみであった事。

3.先に述べた通り、法本尊はあくまでも、滅後の衆生の為であった。

以上を総括して、本抄はあくまでも、「無二の志」(173頁)の人にのみ被見がゆるされた理由があると考えられる。


  • 解題

日寛上人の『文段』を拝すと、大要、「如来滅後五五百歳」を「時」に約し、「始」を「応」に約し、「観心」を「機」に約し、「本尊」を「法」に約すと、時機応法の四義具足の上から読むべきことを指摘されている。

仏の所説を記録した「経」には、必ず、いつ(時)、如何なる衆生(機)に、如何なる法(法)を、仏は説いた(応)のかが記されている。

特に「応」とは、仏の振る舞いの事であるが、これは衆生の仏に対する渇仰する心(機)に応ずるところに仏の説法の本義があり、この衆生側の「機」と応ずる仏の「応」が一致してはじめて「時」が到来するのであり、ここでは衆生の機根の調熟度をさす事ではない。釈尊法華経を説いた時でさえ、衆生の機根は爾前の機根より劣悪であったとされ、法華経を理解できる者はごくわずかであったとされ、釈尊はただ「時」を感じたから説法を始めたのもその為であったとされる。『撰時抄』」、「されば機に随って法を説くと申すは大いなる僻見なり」と言い切っておられるのもこの為で、従って仏法において「時」ほど大事なものはなく、正・像・末の中で上行再誕の後五百歳という「時」が如何に重大であることは論を待たない。

大聖人の御立場法華経を見れば、時機応法は、『方便品』では「爾時(時)世尊、従三昧、安祥而起、告(応)舎利弗(機)、諸仏智慧、甚深無量(法)」となり、『寿量品』では「爾時(時)仏告(応)、※諸菩薩及、一切大衆(機)、○如来秘密神通之力(法)」となっており、いずれも爾の時(時)、仏告げたまわく(応)が記されているが、特に本門寿量品では、対告衆が舎利弗等の声聞階級ではなく、菩薩も含めた九界の一切衆生といったあらゆる衆生の機もかまわず成仏させる力を持っている事が特筆される。

いずれにせよ、「時」を誤ったり「機」と「応」が一致せず「法」の実態が不明瞭であった場合、説法自体が成立しない事になる。


  • 再解題

その上で、再び当抄にこの四義を配せば、四義が完璧に具足しきっていることが明らかであり、この一点、更に『開目抄』における人本尊開顕を見たとき、大聖人が正しく仏の方軌に一致しきった末法の御本仏であることは完全に証明されたといえる。

さて、文証として実際に本文を挙げれば、

「此の時(時)地涌の菩薩始めて世に出現し(応)、但妙法蓮華経の五字を以て(法)幼稚に(機)服せしむ」(253頁)

更に総結文の、

「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し(応)、五字の内に此珠を裏(つつ)み(法)、末代(時)幼稚の頚に(機)懸けさしめ給う」(254頁末)

とあり、正像2000年に未曾有の大御本尊を、末法の初めに久遠の本仏が出現して、弘通されたのである。勿論方程式の上からは上行であるが、実質的にこれだけの偉業は仏にしか出来ないし、仏である以上は、随自意であることから、大聖人の御事を、御本仏と呼ばざるをえない事は上記の文証からも明白となる。

文底顕本の上から佐渡以降が御本仏としての振る舞いが本格的に開始される事を1で述べたが、より明確にするために、いつ本尊の建立を開始されたかについて言えば、未だ一機一縁ではあるが、本抄完成直後の文永10年8月、四条金吾夫妻の愛娘である経王御前の病気平癒のために顕し、授与された御本尊であることは『経王殿御返事』の、「日蓮守護たる処の御本尊をしたため参らせ候事も師子王にをと(劣)るべからず。経に云く『師子奮迅之力』」とは是なり。又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし」との文に歴然であり、弘通の時が到来したという角度でいえば、『本尊問答抄』の、「此の御本尊は世尊おかせ給いて後に二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず、漢土の天台日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ」(373頁)にもある通り、大聖人が痛切に「時」を感じられ、一切衆生に本尊を授与されんとの熱意があられた事が窺われる。本当の意味での「時」を感じられたのはやはり弘安2年の熱原における弟子の戦いと殉教を見られてからであるがそちらは省略する。


  • 本尊

さて、本抄において末法下種の御本尊を開顕するにあたり、文段を敷くと大要以下4段となる

第1段.一念三千の出処を示し、観心の本尊を明かす序分とされる

第2段.観心の本尊の「観心」について論ず

第3段.末法に建立される三大秘法の大御本尊を明かす

第4段.大慈大悲を起され、大御本尊を顕されて、末代幼稚の民衆に信受せしめる

とし、対境としての本尊を、実践していく上で、疑いを起さぬよう、無理なく一切の森羅万法を覚知出来るよう、その徳用を明かされた。理由としては、一つには大小の釈尊、具体的な人格を持った諸仏、大日如来等の如是相がない、実体の存在しない法身仏を信仰の対象としたそれまでの様々な仏教の残滓が残っており、また正・像の所謂六波羅蜜(六度万行)の具体的実践を通じた妙法への帰命、また天台の、そうした煩雑な修行法を否定し観念観法という専ら自身の生命の内奥を見つめ仏を覚知せんとした修行を止揚する意味においても、究極の対境をまず「法」と定め、御本尊として定めた。


  • 受持即観心

本抄の二大骨格となる本尊論と並び、一方の骨格となっているのが「観心」である。

主体となる信仰者が客体たる本尊に向かう修行を本抄で大聖人は定義されている。

1で比較をしたように、天台の観心の域を脱却した、言いかえれば、当時の中国南北朝期の教相派と観心派

を止揚した天台の教観相依(教相・観心修行両面の実践のバランスをとる)の立場、「四種三昧」(論旨が複雑になるため説明は略)、法華懺法、そして「止観」を大聖人は与える立場で、「天台の観心」に心具の一念三千を「不可思議境を観ずる」具体的実践法のなかに、御自身の悟りを内包されていると解釈され、奪っての立場では、「摩訶止観」といえせいぜい仏教史上最大の禅の指南書という程度で、目に見えない一念三千の理が御本尊をして具体的に、完璧に顕現された今、まして教のみで行・証のない迷いの衆生に万行の修行が出来るはずがないと本文中で(一応)自問され、その結果、

釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば、自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与え給う」(246頁)と結論され、末法における唯一の観心修行は、ただ妙法を唱えることのみと断定されたのである。上の文を借りて受持即観心を説明すれば、「受持」は信力・行力であり、信力とは、強盛に妙法五字の本尊を信じ、行力とは、今述べてきたことから、末法においては余経も、法華経ですら栓無しとして南無妙法蓮華経の題目を生涯唱えきっていくこと以外にない。「此の五字」は法力のことであって、本尊の力用の広大深遠を示している。そして、仏力とは、上の「自然に彼の因果の功徳を譲り給う」のことであり、大聖人、即ち久遠元初自受用身の自行化他の因果の功徳が具足している妙法を、御本尊として顕され、末法の幼稚(この場合年齢ではなく仏法に対して通じていない)の凡夫に与えられたという事になる。

故に、末法においては過去修行は関係なく、現時点での御本尊に対する信と行への確信の深さと御本尊の本有の法力と仏力が、境智冥合しきったとき、仏の生命という「証」を会得することが出来、成仏が成立すると大聖人は本抄で述べられておられる。受持「即」観心の即とは随って、御本尊を受持し(本尊)、南無妙法蓮華経を唱えることことが(観心)、末法の修行であることを明かされ、完璧な仏法の確立をみたのである。


  • 総括

本抄によって、それまでの漠然たる妙法覚知への模索から、自身が妙法の当体と立場を定められ、誰もが仏界を顕現できる法理を示し、仏法を民衆の手に戻され、九界即仏界、無一不成仏の原理が、事実上地球に顕されたのである。


《受持即観心/文段/一念三千/摩訶止観/本因初住の文底/有漏・無漏/五種の妙行/教行証/三説超過》 

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