yasuyo-yoの求道辞典

2008-03-19チベット仏教・ダライ-ラマ

【チベットぶっきょう】

チベットにおいて発展した仏教の総称。チベットへの仏教伝来はソンツェンガンポ王(581年~649年)のころとされている。その後、正式に仏教を国境とすることとなり、八世紀中頃に竜樹の流れをくむ中間派のシャーンタラクシタがインドから招かれた。チベットには、大きく中国の禅の流れをとインドの大乗中観派の流れがもたらされていたが、その二つの教えは大きく違っており、どちらの教えも正式に採用するかで、意見が分かれた。そこで、794年、ティソンデツェン王はインドからシャーンタラクシタの弟子にあたる大学者カマラシーラを、中国からは禅僧摩訶衍を招いてサムィエー寺院で、討論をさせた。摩訶衍は無念無想の禅の悟りこそが、仏教の真髄であると説き、カマラシーラは利他の菩薩行を伴わない禅は仏教ではない、と応答した。討論は、摩訶衍の敗北となり、以来チベット仏教は、利他行の永続的実践を強調するインド仏教以来の伝統を重視することになる。膨大なインドの経論がチベット語に訳された。しかし、イスラムによるインド仏教の破壊などもあり、中国の漢訳からのチベット語訳も多くなされた。密教的な修行体系は、むしろこの正統派に対する対抗勢力として起こった。民間信仰の色彩濃いタントラ仏教(密教)もこの流れの中にある。十一世紀に出たアティーシャはこの二つの流れを合一しようと試み、十四世紀のツォンカパに至ってこの両者の思想の統一がインドの中観派の空の思想を根本としてなされることになった。


【だらいらま】

チベット仏教ゲルグ派の一部政治勢力がツォンカパ正統後継者ガンデン寺座主とは別に擁立した転生活仏制による法主。元来はタシルンボ寺、デープン寺、セラ寺の住職を歴任して、カルマ-カーギュ派の信奉者リンプンパの政治的圧力に抗した傑僧ゲンドゥン-ギャムツォを選んだのが始まり。ソーナム-ギャムツォがアルタン汗からダライ-ラマの称号を受けて歿死した後、アルタン汗の曽孫をその転生者に選び、ゲンドゥン-ギャンツォをツォンカパの弟子ゲンドゥン-トゥプの転生者に追認して活仏法主の系統を確立し、新転生者を第四代とした。第五代ガワン-ロサン-ギャムツォはオイラートのグシの軍事力を導入して、カルマ派を擁護したシンシャクパ政権を倒し、1642年にダライ-ラマを頂点とする政権擁立のきっかけをつくり、1660年からポタラ宮に入り統治者となった。以後、清の介入、宋主権の確立による曲折はあったが、歴代聖俗二権を総攬し、宗教的には満州、蒙古までその権威を発揮した。清末期に立った第十三代トゥプテン-ギャムツォは独立運動を推進したが実らず、現在は第十四世テンジン-ギャムツォが1959年に中国の支配からインドに脱出して亡命チベット人の間に権威を保っている。仏教学の上では第五世ダライ-ラマが古典派仏教系の厖大な著作を残し最も注目される。民間の間ではダライ-ラマを観音菩薩の化身が転生しているものだと信じられている。

k-esuk-esu2008/03/25 23:13>国境とすることとなり

国教と訂正させて頂きました。

2008-03-17

懺・慙

【ざん】

恥じるの意で、罪や過ちを反省して恥じること。諸の功徳及び徳のある者を敬い自分の犯した罪の恥じて悪行をやめようとする精神作用をいう。無慚(むざん)に対する語。七財(七聖財、七徳財ともいう)の一つ。倶舎論の七十五法の一つ。また唯識で説く百法の一つ。成唯識論巻六には『云何なるを懺と為すや。自と法との力に依って、賢と善とを崇重するもて性と為し、無慚を対治し悪行を止息するを業と為す』とある。

2008-03-08

柔和忍辱

【にゅうわにんにく】

正法に対しては信状随従し、批判・中傷に対しては忍受し、敢えて逆境を切り開いていくこと。柔和は性質が優しくおとなしいこと。物事に従順で背かないことを柔といい、離れて隔たりなく穏やかなことを和という。

忍辱は、もろもろの侮辱を忍受し、逆境にあってもあえて心が動揺しないことをいう。法華経法師品第十に弘経の方軌として説かれる衣座室の三軌のうち、衣にあたる。「如来の衣とは柔和忍辱の心是なり」と述べられている

2007-12-18

現在十方の仏

【げんざいじっぽうのほとけ】

現在、十方に存在しているあらゆる仏ののこと。十方は四方(東・西・南・北)と(東南・東北・西南・西北)に上・下ニ方を合わせていう。


現在の因

【げんざいのいん】

現世の業因のこと。未来世の果報をもたらす現世の業因をいう。


現在の果

【げんざいのか】

過去世の業因によってもたらされた現世の果報をいう。


現在の五果

【げんざいのごか】

十二因縁(無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老・死)を三世の因果に立て分けたとき、現世の果とされる識、名色、六入・触、受のこと。識とは過去の行業によって母胎に宿るときの心のこと。名色とは胎内で発育した六根を形成するまでの五陰のこと。六入とは、六根を具足して胎内から出生すること。触とは苦楽の分別なく物に触れて感ずること。受とは苦楽を分別して感受することをいう。無明、行の過去のニ因が現在に至って五つの結果となって顕れるとされる。倶舎論巻九に「識は正しく生を結ぶ蘊(うん)なり。六処の前は名色なり。眼等の根を生ずる従り、三の和する前は六処なり。三受の因の異に於いて、未だ了知せざるを触と名づく。婬愛の前に在るは受なり」とある。


現在の三因

【げんざいのさんいん】

十二因縁を三世の因果に立て分けたとき、現世の因とされる愛・取・有のこと。

愛とは物や異性を欲すること、取とは満足の境界を得るために奔走すること、有とは来世に生まれる姿という果をもたらす行為のことをいう。この現在の三因によって生、老死という未来の果を生ずるとされる。倶舎論巻九に「資具と婬とを貪るは愛なり。諸のの境界を得んが為めに遍く馳求(ちぐ)するを取と名づく。有は謂わく、正しく能く当有の果を牽く業を造る」とある。

2007-12-01仏乗

【ぶつじょう】

一切衆生を成仏させるための乗り物のこと。大乗経、特に法華経を譬えた語。仏乗とは仏法を乗り物に譬えて、煩悩や、業苦に苦しんでいる衆生を成仏の境涯に載せ運ぶという意。一仏乗ともいう。釈尊の一代聖教のすべては、総じてはみな仏乗といえるが、別していえば仏乗法華経にかぎる。爾前経は声聞乗や縁覚乗、菩薩乗のように衆生の機根に応じて説法したもので、一仏乗の法ではなく、一仏乗法華経を説くための方便の乗法であるからである。一仏乗とは衆生救済という仏の慈悲を根幹にした出世の本懐であり、法華経のことをさす。