yasuyo-yoの求道辞典

2007-09-12南条兵衛七郎

南条兵衛七郎

【なんじょうひょうえしちろう】

(?~1265年)鎌倉幕府御家人駿河富士上方上野郷(静岡県富士宮市)の地頭。後に入道して行増という。氏は平氏で伊豆国南条が本領であるが、後に駿河富士上野郷の地頭に転じて下条の地に移った。鎌倉に在勤の折、日蓮大聖人に帰依したと思われる。夫人は松野六郎左衛門の娘で男子五人、女子四人があった。兵衛七郎は性格温厚で、情誼に深い人であったといわれ、夫人も温良な人で平和な家庭生活を送っていた。文永元年(1264年)に兵衛七郎は病気になり療養に努めていた。大聖人はその年の11月11日安房の小松原で東条景信の襲撃にあって危うくを逃れられた。小松原の一ヵ月後の12月13日、大聖人は兵衛七郎の病気を気遣われて、御見舞いと信心激励の御手紙を送られている。南条兵衛七郎殿御書に「御所労の由承り候はまことにてや候らん、世間の定なき事は病なき人も留りがたき事に候へば・まして病あらん人は申すにおよばず・但(ただ)心あらん人は後世をこそ思いさだむべきにて候へ」(1493㌻)と述べられ、また見舞いによせて念仏を破折され、小松原の体験をとおして、末法法華経の行者としての大確信を述べられ、兵衛七郎の念仏への執情を断ち切るように御指導されている。兵衛七郎は同二年(1265年)三月八日、臨終正念で逝去したといわれる。兵衛七郎が死亡したのはまだ壮年であり、時光は七歳、末子の七郎五郎は母の胎内にあった。大聖人は兵衛七郎を惜しまれて、わざわざ鎌倉から富士上野の高土(たかんど)の墓所まで行かれて回向されている。

〔御書〕南条兵衛七郎殿御書